100辞書・辞典一括検索

JLogos

40

研屋町
【とぎやちょう】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下中通組に属す。磨屋町とも書く。広島城外濠の南,城の真鍋御門に通ずる南北の筋に沿う町。町内にはこれと並行する筋が西側にあり,それぞれ東研屋町・西研屋町と呼ばれ,また東研屋町と交差する横筋は車屋町と呼ばれた(芸藩志)。毛利氏広島開府の頃,当時干潟であった播磨屋町・研屋町・紙屋町・立町一帯を紀伊国から来た湯川播磨守宗有が開拓。真鍋御門の外に家臣とともに住み,のち刀剣の研を業とするようになったと伝え,町名はこれに由来する(知新集)。元和5年の城下絵図では東研屋町・西研屋町の町間数はそれぞれ1町20間・1町15間。寛永2年の家数改では本家50・借屋122。明暦3年の切絵図では小間数235間余,家数52うち医師8,銀屋・研屋各4,魚屋・かざりや各2。「知新集」によれば石橋1・町門1(東研屋町下),町間数3町15間余,家数90・竈数137(本竈38・借竈99)・人数621,うち塗師10・研職7・大工6・柄巻5,実繰緯車細工・指物師・仕立物師各4,檜物師・傘細工各3,本道医・鍛冶・白銀細工・木挽・桶屋・師・筆結各2,銅虫細工・表具師・畳刺・鞘師・入歯師・釣灯張・鋳懸師・箒師各1など各種の職人が集住。藩御用を勤めた商人・職人としては浅野氏に随従し紀伊国より来住した研師皆伝宗祐と塗物師岡小兵衛,箸削りおよび豆腐商の箸屋喜兵衛,銅虫細工の荘屋大吉・錠屋忠左衛門がいた(知新集)。東研屋町の通りには桜川と呼ぶ細い水路があり,その名はかつて川端に桜の木があったこと,あるいは城内の屋敷から桜花が散り流れて来たからとも伝える(同前)。町内には真宗勝順寺がある。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治16年の広島諸商仕入買物案内記には薬種商2,銅版印判彫刻・塗物・機械製造・建具商各1。車屋町一帯には建具屋が多く,紙屋町にかけては洋家具屋が軒を並べて広島洋家具の名を広めた(続がんす横丁)。大正6年の戸数202・人口756。昭和26年の世帯数130・人口462。同40年立町・紙屋町1~2丁目・本通となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7189911