中島本町
【なかじまほんまち】

旧国名:安芸
(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下中島組に属す。本町とも称した。広島城の南,本川と元安川が分岐して形成した三角州の北部。町名は中島の本通りであることによる(知新集)。本町は元安橋から猫屋橋(本川橋)に至る西国街道沿いの町で,通りは鉤の手に屈曲。毛利築城当初から開けた町人町で,元和5年の城下絵図には町間数2町2間。寛永2年の家数改では本家75・借屋158。承応3年の切絵図によれば,間数371間余,家数83うち米屋12・茶売7・橋はき4,医師・酒屋・味噌屋・麹屋各2,ほかに両替屋・塩売・材木屋・竹売・木綿屋・紺屋など。本町筋から南へ抜ける小路には西寄りに両替屋小路,中央に目安小路,東寄りには本町の枝町湯屋町があり,北へ抜ける小路には慈仙寺小路があって,この奥には福島氏時代高田郡吉田から移転した浄土宗慈仙寺がある(第2次大戦後中区江波二本松に移転)。その北側本川と元安川の分岐点に面した地は慈仙寺鼻と呼ばれ,広瀬新開分に属するが,もと武家屋敷地であって,寛永年間の城下絵図には「納戸下奉行衆」と記される。享保14年白島大火の翌15年慈仙寺前に火の見櫓が建てられたが(事蹟緒鑑),寛保3年緊縮財政のため廃止。「知新集」によれば,石橋4・町門1,町間数5町53間余,家数104・竈数117(本竈27・借竈90)・人数417うち本道医6,針医・櫛笄継鏡磨各2,塗師3,印判師・傘細工各1。金銀質貸を業とした三国屋は代々才覚銀御用・御勝手向御用・中島組大年寄役などを勤め「城下にならひなき豪商」と呼ばれた(知新集)。また城下随一の小間物屋といわれた吉田屋,酒造のほか味噌醤油を商った備中屋,質貸を営み勘定所御用を勤めた伊予屋,質貸のほか漆・扱苧などを商った漆屋などの豪商が軒を並べた(同前)。本川・元安川の水運も活発で,川岸には雁木を築いて船着場を設けた。嘉永7年には当町の対馬屋を船宿として賀茂郡広浦との間に毎日出帆の定期便が開始された(新修広島市史)。真宗浄宝寺は毛利氏時代高田郡吉田より移転(第2次大戦後中区大手町へ移る)。明治6年第6小区小学義校が慈仙寺に設立,同7年には生々舎と改称。同8年の教員数5・生徒数507うち男309・女198(同前)。同11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治11年から慈仙寺鼻から元安川対岸の矢倉下および本川対岸の鷹匠町にそれぞれ架橋,相生橋と命名。昭和9年新しくこれら3地点を結ぶT字橋が架設,一時期旧相生橋と合わせH字形の平面形をもつ橋となった。明治15年広瀬村の一部を編入。同年広島初の盛り場中島集産場が開場,店舗数17・敷地1,300坪。同18年大黒座・胡子座(のち広島初の映画常設館世界館となる)の2つの寄席ができ,これを中心に袋物商・小間物商のほか遊技場など約40の店が並んでにぎわった(続がんす横丁)。同25年中島勧商場が慈仙寺鼻の入口に開場,寄席鶴の席を中心に20戸の商店が並んだ。しかし大正中期から新天地の開設などによって繁華街の中心は次第に本通り・金座街・新天地へと移った。第2次大戦後原爆の爆心地に近いこの地には平和記念公園が建設され,昔からの町並みはすべて姿を消した。大正6年の戸数253・人口1,166,昭和26年の世帯数283・人口922。同40年中島町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7190016 |





