西白島町
【にしはくしまちょう】

旧国名:安芸
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は広島城下中通組に属す。西箱島町とも称した。江戸初期の城下町建設に伴い,白島村のうちに成立した町。広島城の北西,本川(太田川)東岸に位置する。町名は白島の地の西部にあることによると思われる。毛利氏による広島築城当時,地内には大工小屋がかかり,大工・木挽職なども集まって町を形成したという(知新集)。毛利氏に替わった福島正則は城郭と白島の間を東西に流れていた城北川の両端を塞いで外濠とし,当町は城郭西部の小姓町と繋がった(新修広島市史)。寛永2年の家数改では本家16・借屋50。承応3年の切絵図では小間数99間余,家数27うち材木屋7・木屋2・茶売4・薪屋3,紺屋・塩売・紙屋・豆腐屋各1など。本川端には藩の運上場役所(のちの御材木場)が設けられ,太田川上流から船・筏で運ばれる材木・板などを検査し,運上をかけた(芸藩志拾遺)。「知新集」によれば,享保14年の白島大火の翌年,当町と銀山(かなやま)町・中島本町の3か所に火の見櫓が建てられたが,寛保3年廃止,また町間数2町9間余,家数31・竈数61(本竈11・借竈50)・人数275うち畳刺・桶屋各2,本道医・茅葺・鍛冶・紺屋各1。町内には質貸を業とした綿屋・酒造の山田屋が住んだ。曹洞宗洞門寺は浅野氏入国ののち紀伊国から来た僧の創建と伝える。本川対岸の楠木村との間には運上場渡しがあった。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。同14年繰綿・打綿・糸挽機械の工場を県の士族授産事業の1つとして開始。翌15年旧藩士族の所有となり,士族の相互扶助団体である同進社によって経営。同年白島村・白島一番町・白島二番町の各一部を編入。明治末期外濠が埋め立てられ,運上場渡しの地に三篠(みささ)橋が架橋。横川から広島駅前方面への幹線となった。広島技芸女学校は中島本町の慈仙寺から大正6年外濠跡の埋立地に出来た新校舎に移転。その後広島実科高等女学校を併置し,同10年安田高等女学校となった。第2次大戦後白島北町に移転。大正6年の戸数222・人口882,昭和26年の世帯数432・人口1,758。同40年東白島町となり,白島西中町・白島中町・基町の各一部を編入。同55年中区の町名となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7190225 |





