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平田屋町
【ひらたやちょう】


旧国名:安芸

(近世~近代)江戸期~昭和40年の町名。江戸期は広島城下中通組に属す。広島城の南,西国街道に沿い,西には播磨屋町,東は平田屋川を挟んで堀川町が続く。毛利氏広島開発の時,出雲国平田の平田屋惣右衛門が招かれて城普請・町割に協力,その功により当地に家地30間を給され町人頭となった(知新集)。町名はこれに由来する。元和5年の城下絵図では「平田町」として町間数1町25間。寛永2年の家数改では本家30・借屋76。承応3年の切絵図では小間数192間,町門4,家数40うち米屋5,医師・麹屋各2,ほかに三原屋の本・分家・持屋と思われるもの10など。「知新集」によれば町門2,町間数2町55間余,家数53・竈数81(本竈20・借竈61)・人数311うち柄巻師・鍛冶・畳刺・合羽師・傘張・仕立物師・表具師・筆結各1。平田屋惣右衛門は毛利氏移封後出雲国へ帰ったが,福島氏の招きをうけ再び来住,大年寄役を勤めた。のち代々船年寄を勤めたがやがて没落し,天明年間の頃転出。茶屋伝右衛門は挽茶商の傍ら点茶を楽しみ茶名を道悦と号した。明治11年広島区,同22年広島市の町名となる。明治16年の広島諸商仕入買物案内記では小間物卸3,端物卸・西洋物卸各2など各種の卸小売商15。平田屋町から元安橋東詰に至る旧西国街道筋は本通りと呼ばれ,「最も繁賑の地にして終日行人織るが如し」と評された(明治33年の広島繁昌記)。大正初期当町・播磨屋町・革屋町の3町は三栄会という商店会を結成,昭和初期には本通り西部の商店会と合併し本通り会を結成。また新天地の開業した大正10年には本通りの道路が舗装され,鈴蘭灯も常置。昭和10年の本通り商店街の小売店は衣服装身具83・文化品41・住居用品17・食料品15など合計162(新修広島市史)。翌11年広島税務署の収益調査によると広島の13商店街のうち平田屋町は榎町についで第2位(続がんす横丁)。大正6年の戸数56・人口359,昭和26年の世帯数78・人口390。同40年本通・立町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7190625