阿東町
【あとうちょう】

(近代)昭和30年~現在の阿武(あぶ)郡の自治体名。阿武川および生雲川流域,中国山地主脈の尾根の北側,東は高岳山・木谷山,東南は本谷山・野道山・津々良ケ岳,南は物見ケ岳・竜門岳,北は十種ケ峰(とくさがみね)・権現山など,周囲に900m前後の高山が群立している。篠生(しのぶ)村・生雲村・地福村・徳佐村・嘉年(かね)村が合併して成立。合併各村の12大字を継承。町役場は旧徳佐村役場を利用して開設。昭和32年町役場新庁舎が完成。町名は,阿武郡の東南部,むつみ村の吉部・高俣および篠目・生雲・地福・徳佐・嘉年の7か村を,古くより阿東地区と呼んでいたことによる。数万年前,阿武川の上流は,津和野方面に流れていた。それが野坂山火山群の噴火によりせきとめられ,徳佐地福盆地一帯には大きな湖が出現。これを古徳佐湖と呼んでいる。この湖は,長門峡(ちようもんきよう)が切れ,ここから排水されることにより次第に消滅し,やがて現在の水系に変わっていった。徳佐高校敷地遺跡は最も古く,7,000年前(縄文早期)の土器が発見されている。一方渡川の原遺跡は縄文中期を中心とする遺跡。徳佐盆地のほぼ中央,沖田川沿いの沖積台地,惣ノ尻遺跡・坂手沖尻遺跡・宮ケ久保遺跡はともに集落跡で,地福盆地には突抜遺跡・馬場遺跡があり,どちらも阿武川の河岸段丘上に成立した弥生時代の集落遺跡である。古墳時代になると,徳佐盆地の丘陵や縁辺の山麓部に小規模な古墳群が造られた。なかでも狐塚古墳は山間部唯一の前方後円墳で,また近くに小南墳墓群もある(よみがえる弥生のムラ)。昭和30年合併当時,田2,374ha・畑385ha,世帯数4,198・人口2万617(男1万246・女1万371),産業別人口は,農林業1万6,786・鉱業297・工業267・商業1,664・交通業157・公務自由業1,344・その他98。同31年長門峡竜宮橋完工。同34年十種ケ峰スキー場再開。同36年国鉄山口線に渡川・名草・船平山の3無人駅,同37年鍋倉無人駅設置(阿東町誌)。世帯数・人口は,同50年3,559・1万2,831(男6,117・女6,714),同60年3,440・1万1,424(男5,455・女5,969)。昭和48年福厳院の鰐口,須賀社の厄神舞・生雲八幡宮奴道中・蹴出し踊り(町無形民俗文化財),狐塚古墳(町史跡),徳佐八幡宮しだれ桜・角太郎ユズ・船平山群生のレンゲツツジ(町天然記念物),同49年中河内注連縄打ち(町無形民俗文化財),同60年生雲八幡宮沢宣嘉願文,三原の不動板碑,福厳院五輪塔,亀山の宝篋印塔がそれぞれ町文化財に指定された。なお,川上村につながる長門峡は大正12年国名勝に指定された。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7191742 |





