100辞書・辞典一括検索

JLogos

35

大島町
【おおしまちょう】


(近代)昭和27年~現在の大島郡の自治体名。屋代島の西部に位置する。小松町と屋代村が合併して成立。大字は合併2か町村の6大字を継承。町役場は当初,旧小松町役場を利用したが,昭和29年小松に移転新築した。同30年,沖浦村と蒲野(がまの)村を合併し,両村の8大字を加え合計14大字を編成。沖浦村・蒲野村の村役場は,大島町役場の沖浦出張所・蒲野出張所となった。同31年椋野は久賀町椋野となる。同年,秋の一部が橘町秋となり,残部は同年家房と改称。当町の東は,田ノ尻鼻・文珠山・嘉納山・源明山・家房崎と連なる山地によって久賀町・橘町の境となっている。北・西・南の三方は海に面しており,海上には5つの小島があり当町に属しているが,人家があるのは笠佐島だけである。町の西北端の海は大畠瀬戸とよばれ,屋代島と本州を結ぶ最短距離で800m。この一帯は急流で知られる。世帯数・人口は,昭和30年4,274・1万8,464,うち男8,752・女9,712,同35年3,721・1万4,629(1世帯当たり3.9人),同40年3,548・1万2,959,同50年3,561・1万793,同55年3,448・9,981(1世帯当たり2.8人),同60年3,858・9,558,うち男4,549・女5,009。昭和35年の就業人口は,農業3,564,林業106,漁業152,建設333,製造447,小売卸売549,保険金融60,運輸通信682,電気・ガス・水道12,サービス業825,公務員218,計6,948で,第1次産業・第2次産業・第3次産業は,55%・11%・34%であったが,同50年には41%・18%・41%,同55年には37%・20%・43%となり,中心は第3次産業へと移った。農家数・水田面積・ミカン畑の面積・その他の畑面積の推移は,昭和35年2,252(うち専業786・兼業1,466)・754ha・137ha・206ha,同40年2,085(うち専業620・兼業1,465)・582ha・327ha・87ha,同50年1,964(うち専業559・兼業1,405)・395ha・496ha・49ha,同55年1,855(うち専業631・兼業1,224)・356ha・486ha・40ha。ミカン畑の増加が目立つ。昭和34年小松港の西に大選果場を建設したがその後小松開作へ移転。沖浦地区でも選果場が家房にあったが,同55年には戸田(へた)に,また三蒲地区も同56年に新築した。昭和40年には横見にマンモスミカン団地が完成。同年,戸田字津海木(つのうぎ)にマンモスミカン倉庫がつくられるなどミカン生産に力が入れられた。主要農産物である米・ミカンの生産量は,昭和45年1,680t・7,560t,同50年1,540t・1万1,824t,同55年1,163t・1万5,280t。家畜飼育は,昭和35年鶏1万7,000余・役肉牛1,051・乳牛93・山羊175・豚53・羊38,同44年鶏5万7,000余・和牛403・乳牛81・山羊150・豚43,同55年鶏1万3,000余・肉牛88・乳牛157・豚47。同56年大島酪農組合は新しい牛乳集出荷施設を建設。塩業は,県内最後の小松塩田があったが,昭和46年12月に二百数十年の歴史に終止符を打った。跡地は,クルマエビの養殖場のほか宅地造成が行われ,100戸以上の入居者があった。漁協は,昭和39年町内3漁協の合併によって一本化が進められた。漁家数は昭和38年111戸(専業10),同48年75戸(専業17),同53年50戸(うち専業5),漁獲量161t。育てる漁業として,昭和32年三蒲真珠組合が作られ,同34年には津海木でも真珠養殖を行った。同47年塩田跡でクルマエビ養殖,同53年出井でアワビ養殖,津海木ではタイ・トラフグ・ハマチなどを,また小松や志佐の沖では,タコ壺の投入などが行われた。淡水魚では,昭和30年ごろから小松開作で黄金の鯉養殖が行われた。同48年から三蒲,同57年からは志佐で5か年計画での漁港改修事業が行われた。商店は,昭和45年卸売業19戸・小売業240戸・飲食店17,同54年もほぼ同数で,小松地区が中心をなしている。製造関係事業所は,昭和45年57か所,同55年には47か所で,食料関係が半数を占める。昭和45年には屋代・沖浦診療所跡に縫製を行う軍鶏被服大島工場が進出し,同55年には大島冷凍食品が小松字磯崎で操業。同61年,軍鶏被服の沖浦工場を屋代工場に合併し,屋代共同作業所企業組合と名称を変更。昭和60年には東三蒲に海面埋立てによる大島地域水産加工団地が造成され,企業進出が進んでいる。国鉄連絡船は小松港と本州の大畠港を結んでいたが,昭和47年には2隻の船で1日片道34航海をし,平均4,747人・車413台を渡した。昭和35年ごろは柳井市によって小松・小松開作と柳井港間を片道7回運航する航路があったが,同39年からは防予汽船が経営し,翌年からは小松港と柳井港間で12回,開作港と柳井港間でフェリー39回を運航した。同51年大島大橋の開通によって両航路とも廃止された。大橋は,屋代島と本州の最短距離にある大畠町神代と当町小松間の800mを結ぶ。防予汽船の航路廃止で孤島化した笠佐島には,同52年から行政連絡船として定員12名の「かささ丸」が1日3往復就航している。昭和46年新明新橋架橋,開作県道拡幅工事完成,同48年主要地方道大島環状線三蒲バイパス完成。三蒲の主要地方道は,昭和56年新設の国道437号の一部となった。その他,農業に関係した道路としては,同49年三蒲進入路から東へ延びる大規模農道を起工。同50年屋代~三蒲間の農免道路完成。同57年沖浦農免道路の建設が開始された。水不足を解消するため,昭和29年志佐,同31年三蒲・小松,同32年津海木,同37年小松開作,同53年出井,同56年戸田などに簡易水道が敷設された。昭和46年から県により屋代川治水ダム建設工事が行われている。水田10町余・畑地13町余と,字樫原・自光寺を主とする民家22戸がダム予定地に含まれている(屋代川ダム水没地域民俗学術調査緊急報告)。公立の医療機関として,診療所が昭和28年屋代地区,同31年蒲野地区・沖浦地区へ開設されたが,約10年間で廃止。同42年には小松港そばの旧大島海洋訓練所跡に,組合立の総合医療センター大島病院を建設。同年には日見字浜田に郡のし尿処理場が建設。同47年広域市町村圏により,三蒲に大島東消防署ができた。中学校は,昭和28年,小松中学校と屋代中学校を統合して屋代に開設された大島中学校と,沖浦・蒲野中学校がある。昭和23年県立久賀高校蒲野分校が開校したが,同31年廃止,同校小松分校も同38年廃止。同年県立安下庄高校沖浦分校も廃止。昭和36年県立田布施農業高校大島分校が開校。小松の国立大島商船高校は同42年大島商船高等専門学校に昇格した。昭和35年小松瀬戸に200人収容の県立大島青少年海洋訓練所海の家が落成したが,同51年に家房に大島青年の家として移転。小松瀬戸の海の家のあとに,同58年大島町歴史民俗資料館が開館。昭和33年戸田の沖浦出張所内に設置された吉野文庫は,同55年大島図書館と改称して大島町公民館へ移転。昭和52年町役場前に町民グラウンド,同58年に体育館設置。同年,三蒲に町営プール完成。文化財は,昭和19年国重文に指定された日見西長寺の木造阿弥陀如来座像,同41年県文化財指定の東三蒲の松尾寺にある木造二天王立像,町文化財としては同51年指定の地福山古墳,同56年指定の日見岩戸神舞などがある。昭和43年明治百年を記念して「四境の役大島口戦跡碑」を源明山頂に建立した。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7192135