上小川村
【かみおがわむら】

旧国名:長門
(近世)江戸期~明治初期の村名。長門(ながと)国阿武(あぶ)郡のうち。日本海に注ぐ田万(たま)川の支流原中川・宇谷川・大江後川・梅の木川の沖積低地および点在する火山性台地上に位置する。萩藩領。奥阿武宰判に属す。慶長5年検地帳には小川郷上と記され,同15年検地帳には小川郷とある。寛永2年検地帳に「小川上下・鈴野川共ニ」と見え,寛永3年給領御配郡別石高名付附立には上小川村とあり,この頃小川村が上小川村・下小川村の2か村に分村して成立していたと考えられる。村高は,寛永3年2,671石余(給領御配郡別石高名付附立),「注進案」では小川村と記され3,288石余,「旧高旧領」3,288石余。天保14年の田畑面積は,田122町2反余・畑176町1反余,家数316(うち大工5・木挽1・桶屋2)・人数1,097。また,上小川村は益田氏の給領地であり,「在宅益田刑部様御家来衆」が130人も在村(注進案)。小村は田添・開作・原中・五反畠・杉ガ原・立野・笠取・上野原・三明・差出・宇谷・矢原がある(県風土誌)。「注進案」によると,萩から石見益田に至る石州街道のうち土床(つちどこ)道筋が村内を通り,上野原には駅が置かれて人夫4人が常時いた。上野原には,このほかに給主益田氏の建てた社倉が1棟あり,高札場も置かれ,「捨馬御制札駄賃定」の札掛があった。また草鞋・松明あるいは煮売商売宿などをするものも数軒あったが,宿場町というほどのことはなかった(注進案)。四方を山に囲まれ,村内にも小山が多く,人家は浴々や山麓に軒を並べており,総じて田畑14%・山野86%ほど。日当たりはよく,厚地4分・薄地6分,麦田4分・水田6分と古来より言い伝えていたが,天保7・8年に水損にあい,地勢は劣化。当村は,紙漉の利益を見込んで土地不相応の高石であったため,飯料・雑用共に不足し困窮するものが多く(防長造紙史研究),給主より石下げの措置がとられていた(注進案)。耕作第一であって,冬春は給主へ上納する半紙をすき立てるものが多い。給主益田氏は万治2年より請紙制度をとっていた。天保14年当時250軒の紙漉がおり,875丸の半紙をすき,上納紙265丸,給主買上紙374丸,紙布着料・地下役座・遣い紙などを除いた残り90丸ほどを,塩・醤油・綿・油などの代わりに須佐へ持ち出し,売紙にしていた。この代銀が12貫600目ほどであった(同前)。神社は武氏山八幡宮,社外の小社として船石山土徳神社・名利山八王子社・長羅山恵美須神社,祇園社・宮内大明神社など(寺社由来)。寺院は真宗西本願寺派の竹林山尊正寺・松林山光明寺・長水山西光寺・霍林山光清寺(同前)。近世末には寺子屋として高津政雄・坪田権介・松尾要人の家塾があった(小川小学校百年史)。明治初期,上小川東分・上小川西分の2か村に分村した。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7192427 |





