100辞書・辞典一括検索

JLogos

44

高俣村
【たかまたそん】


(近代)明治22年~昭和30年の阿武(あぶ)郡の自治体名。蔵目喜(ぞうめき)川上流域で阿武高原の奥地。その間に開けた高佐盆地や片俣盆地は南の伏馬山や村内の兵原台などから噴出した溶岩による蔵目喜川の堰塞湖盆地。高度300m以上の山間高冷積雪地帯。高佐下村・高佐上村・片俣村が合併して成立。旧村名を継承した3大字を編成。村名は旧村名から各1字をとり命名。村役場は前戸長扱所に引き続き,高佐下本郷の櫛部村長宅地内に置かれた。明治24年の戸数631・人口2,362(男1,213・女1,149),厩387,寺院3,学校2,水車場2(徴発物件一覧)。同44年育秀小学校が高佐下大丸子に移った後は三安の旧校舎に役場を移し,大正7年高佐上大伝に新築移転。明治35年603戸・2,575人(男1,309・女1,266),大正元年533戸・2,159人(男1,104・女1,055)。昭和22年の世帯数612・人口2,839(男1,447・女1,392)。明治24年,福川村(現福栄(ふくえ)村)から島根県境土床(田万川(たまがわ)町)に至る道路の改修工事が行われ,同29年高佐上領家~嘉年(かね)村(現阿東(あとう)町)神田間の道路も改修された。大正10年には郵便局が高佐下大丸子に開局,昭和5年からは電報・電話の取扱いも始めた。大正11年,萩区裁判所高俣出張所設置,後に登記所となる。防長バスの高俣乗入れは大正13年頃で,同15年には電灯線架設。昭和期に入ってからは深刻な農村不況の影響があった。同22年新制中学校開校,校舎建設には村有林が活用された。同23年高校の分校を設立,同年農協発足。同28年設立された高俣土地改良区は,山村における大がかりな土地改良事業として反響を呼んだ。昭和29年湧水利用の簡易水道新設。寺社では明治41年小国の厳島社ほか村内の無格社を片俣八幡宮境内神社に合祀し,翌42年熊野神社(辻山)・須賀神社(亀山)・羽月神社・若宮神社(境内)・厳島神社(末永)・後井正八幡宮を高佐八幡宮(宮廻り)境内社六郷神社に合祀,さらに昭和22年六郷神社を高佐八幡宮に合祀。金谷の光雲寺は昭和11年中橋に移転。同30年むつみ村の一部となり,3大字は同村の大字に継承。なお,その際村名は消失したが,高俣の名は学校などの名称に残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7193462