鶴江浦
【つるえうら】

旧国名:長門
(近世)江戸期の浦名。長門(ながと)国阿武(あぶ)郡のうち。鶴井・釣井とも称した。萩三角州を形成する阿武川下流の松本川河口の東岸に発達した漁業集落で,萩城の東約2kmの地点に位置する。地名の由来は,昔当地の山に2羽の鶴が渡り住み,巣ごもりしたことにちなんだものという(地下上申)。萩藩領。浜崎宰判に属す。慶安3年長門国大道小道並灘道舟路之帳には鶴井と見え,家数47軒とある。村高は,元文5年107石余(地下上申),寛政元年119石余(浜崎宰判浦島石高其外付立一紙),安政2年123石余(郡中大略),「旧高旧領」128石余。小名に雁島・上鶴江・下鶴江がある(浜崎宰判浦島石高其外付立一紙)。家数・人数は,元文5年99・366うち男149・女217(地下上申),安政2年155・758うち男407・女351(郡中大略)。船数は,寛保2年に網船2艘・漁船54艘(地下上申),安政2年には漁船116艘(郡中大略)と増加している。釣漁や鉾漁を営み,8月から翌年3月ごろまでは鰯漁を行っていた(地下上申)。当浦は早くから遠い海上での漁業を試み,文化末年以後,毎年20艘以上の漁船を仕立てて壱岐・対馬・肥前に出漁し,さらに,天保元年以降は,朝鮮半島の慶尚道・全羅道沖まで航行し,延縄によるタイ・サメ・ブリの漁獲を行っていたという(萩市誌)。嘉永5年13代萩藩主毛利敬親は,洪水時の水勢を緩和し,舟運の利便を図るために,当浦の東側の鶴江台と長添山との間に姥倉運河の開削工事を実施し,人夫30万人,銀1,160貫目を費やして,安政2年に竣工した(萩図誌)。天保14年から慶応2年にかけて10回の海難事故が発生し,船頭13人・舸子38人の溺死者を出している(宰判本控)。神社に大歳・神明(鶴江神社)などがあり,寺院に浄土宗鶴江山修多羅院音声寺があった(地下上申)。神明は鶴江恵美須の森に内宮・外宮を勧請したといわれ,享保2年に現在地に移された。音声寺は明治初年に常念寺に合併された。灯籠堂番所・灯籠堂・鐘楼・大筒台場・大砲御道具固屋が各1か所置かれていた(郡中大略)。明治初期,椿郷東分村の一部となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7193680 |





