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徳山下松港
【とくやまくだまつこう】


徳山湾・笠戸湾を中心に,新南陽・徳山・下松・光の4市にまたがる特定重要港湾。周防(すおう)灘に面する天然の良港で,大津島・黒髪島・大島半島・笠戸島などに囲まれ,湾内の水深は10m前後と深く,周南工業特別地域の工業港として県下有数の貨物取扱量をもつ。新南陽市富田の古市は海に開かれた港町で,富田湊からは,古くは東大寺領の運上物をはじめ,多くの物資を積み出した。応仁2年,東大寺油倉宛送進状(京都大学所蔵東大寺文書)に「富田弥益丸」とある。徳山市の浜崎町は,慶安3年徳山城下建設の時,鮮魚供給のために藩内の下松・福川・富海(とのみ)(現防府(ほうふ)市)の3浦に割り当てて移住させた漁家17軒に始まる。主要往還からはずれ,海岸沿いに位置した下松は,早くから良港として知られ,康応元年厳島詣をした足利義満はそのまま西へ進み,迎えの船に乗った大内義弘に案内されて下松に上陸,宮ノ洲の御所に入った(鹿苑院西国下向記/県史料中世上)。また慶長5年防長2国に移封された毛利氏は居城は萩に定めたが,毛利水軍の船手組の本拠地を一時下松に置いた。島田川河口の光市浅江は,米の積出港で御米蔵が建ち栄えた。江戸期,毛利氏の防長三白(米・塩・紙)政策推進に伴い,大坂を中心とした瀬戸内海航路は繁忙を極め,富田・徳山・下松の各港は生産物の積出港として,また内航航路の寄港地として発展。明治38年徳山町に海軍煉炭製造所開設,大正10年海軍燃料廠に改組拡張され,同11年徳山港は特別輸出入港の指定を受け,石油関係では横浜港に次いでわが国2位の輸入港となった。同港は,昭和13年海軍要港となり,亜鉛製練所や曹達工業・鉄板工業など民間会社の発展とあいまって繁栄したが,同20年2度の空襲で徳山市街地の約80%を焼失。戦後いち早く戦災復興土地区画整理事業を開始,徳山港は同23年開港場の指定を受け,同24年航行安全宣言が行われ,同26年入国港・重要港湾に指定され,同39年周南地区工業整備特別地域の指定とともに翌40年徳山下松港として特定重要港湾となる。現在,出光興産を中心とする石油コンビナートを形成し,新南陽・下松・光地区にも電力・石油・鉄鋼・化学工業が発展,わが国の代表的な臨海工業地帯の一つとして数えられるまでに成長した。同57年の「徳山下松港港湾計画資料」によると,昭和41年港町ふ頭(水深6m,延長210m,3,000t級岸壁)完成,同42年から晴海ふ頭の建設に着手,同46年に水深7.5m,延長260m,5,000t級岸壁,同47年に水深10m,延長370m,1万5,000t級岸壁が完成。同59年には1万5,000t級岸壁740mとなる。徳山下松港全体の昭和60年出入貨物量は,4,649万4,134t,うち外貿1,117万t・内貿3,532万t,原油・石油製品が輸入量(823.9万t)の64.6%を占め,輸出量(293万)では輸送機械・鉄鋼が過半数を占める。移入(1,965.8万t)では石灰石・石油製品・鉄鋼,移出(1,566.6万t)ではセメント・石油製品・重油が多い。入港船舶数3万5,394隻・入港船舶総トン数3,815万2,956t,1万t以上の入港船数464隻。徳山下松港中最大の港湾である徳山港は,出入貨物量の65.0%,入港船舶の57.5%を占め,以下,新南陽港20.5%と21.4%,下松港10.3%と12.3%,光港4.2%と8.8%である。なお,徳山下松港域には,第2種漁港の福川・徳山・光の各漁港と第1種漁港の粭島・大津島の各漁港がある。また,徳山と大分県竹田津を結ぶ周防灘フェリーが1日9便就航,2時間の船旅で九州へ行ける。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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