西細江町
【にしほそえちょう】

旧国名:長門
(近世~近代)江戸期~昭和31年の町名。江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領。関門海峡に面する。地名は,細江町が東・西に分かれたもの。寛政4年の家数391・人数1,375(男681・女694),うち職人85(赤間関在番支配下の人口調/下関市史),天保9年の町内人別名前控には家数270・人数1,036(男517・女519)が記され(赤間関人別帳),当時の赤間関総人口の約6分の1を占めていた。関門海峡に面するこの一帯は,北前船などにより北国,または九州との交易が盛んで,米・肥料・カツオ節ほか多くの物産の中継貿易が行われ,寛文10年には,当町ほかに400軒もの問屋があった。広江殿峰は,自宅西江堂を,赤間関を通る学者・文人・画家などに開放,頼山陽や田能村竹田といった学者・文人が立ち寄っていた。寺院は浄土真宗本願寺派光明寺がある。同寺には,文久3年5月10日下関攘夷戦で,アメリカの商船ペムブローク号を砲撃した光明寺党の本営があった。明治12年広井良図が私塾硯湾学舎を開く。同年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す。明治12年には東部の入江と呼ばれていた地域が入江町となる。同31年,下関と門司・徳山を結ぶ連絡船が就航。徳山航路は同35年に閉鎖されたが,門司航路は,昭和22年に竹崎町へ移るまで続いた。明治31年,山陽鉄道が徳山から下関まで延長されることが決まり,同32年に埋立て工事着手,同34年に完工。馬関駅(同35年に下関駅と改称)は同34年5月に完成。同年赤間関警察署西細江派出所(現下関警察署)ができ,同35年には下関郵便電信局細江支局も設置された。下関郵便電信局細江支局は,大正10年下関郵便局となり,昭和20年竹崎町へ移転。また,駅前には山陽ホテルが明治35年開業し,当時の日本では屈指の施設を誇った。同38年,朝鮮半島の釜山と下関を結ぶ関釜航路が開設され,壱岐丸が就航。昭和20年閉鎖,一日最高乗船者は,興安丸など4隻に1万4,000人。昭和9年,下関駅の東に接する船溜りの狭小部分を結ぶはね橋が完成し,下関駅から唐戸町への臨港貨物線が開通した。大正12年から4人乗りの乗合自動車が営業を始め,昭和13年唐戸から路面電車の路線が延長され,西細江が終点となった。駅前には,銀行・旅館や旅行者相手の飲食店や料理店などが軒を連ねた。夜ともなると海辺には露店が並び,深夜まで不夜城の観を呈して山陽の浜と呼ばれ,若山牧水はこのようすを「桃柑子芭蕉の実売る磯街の露店の油煙青海にゆく」と詠んでいる。昭和7年には,6階建ての山陽百貨店も開店(同19年閉店),商業の面でも西部の中心地となった。しかし,このにぎわいも,関門鉄道トンネルが開通し,同17年に現在の下関駅が竹崎町に開業,同20年に関釜連絡線も閉鎖されると西の竹崎町へと移った。さらに,同20年7月の空襲で,下関警察署などわずかの建物を残して,町のすべてが焼野原となった。戦災復興により昭和21年には路面電車が西細江から新しい下関駅前の竹崎町まで路線を延長,同46年に廃止。昭和17年から閉鎖されていた水車式の貨車航送船が,同25年から自動車航送船として復活,同33年に閉鎖。昭和25年市民館と公民館(昭和28年から中央公民館)が完成。市民館は同26年に市民館大劇場として開館。翌年の5月から下関東宝劇場と改称し,演劇や映画が上演・上映された。世帯数・人口は,大正14年372・2,136,昭和10年357・2,195(男1,132・女1,063),同25年178・752(男372・女380)。同29・31年細江町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7194005 |





