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萩漁港
【はぎぎょこう】


萩市椿東(ちんとう)字中小畑を中心とする第3種漁港。北の笠山への陸繋砂州部に位置する越ケ浜北湾の嫁泣(よめなき)漁港,南湾の夕(ゆうなぎ)漁港,南の阿武(あぶ)川河口西岸の浜崎漁港を含めたものを広義の萩漁港といい,天然の良港をなす。狭義には,かつて戎ケ鼻(えびすがはな)港と呼ばれた中小畑地区の漁港をさす。県下では下関漁港に次ぐ漁獲高をあげる北浦沿岸一帯の中心漁港で,日本海の海況にも恵まれ古くから漁業が盛ん。「地下上申」と「郡中大略」によると,小畑浦では,元文5年漁船72隻,寛保2年網船16隻・釣漁船60隻となり,網船は8~10月に中網鰯漁,11月~翌年3月に大網鰯漁,4~6月に小鰯網引きを行い,44隻の漁船は鰯漁のほか,釣・手繰網を行った。手繰網漁業をこの時代から採用していたのは小畑浦の特徴で,この伝統が大正年間にいち早く機械手繰網漁業を行う素地となった。越ケ浜浦は,浦としての独立はほかの浦よりやや遅く,延宝4,5年頃浜崎宰判代官勝間田権左衛門就通が越ケ浜を開き,民家を誘致して以来浦として発達し,元和元年新浦取立となった。元文年間には漁船63隻を有する有数の浦となり,うち漁船一隻は神徳丸という60石積みのいさば船(魚運搬船)で,漁獲物を魚問屋のある浜崎へ運搬した。浜崎魚問屋との取引関係は,明治32年まで続いた。寛保2年漁船77隻・鰯船8隻,安政年間102隻。漁法は釣魚が最も多く,延縄・鰯網・大敷網も行われた。越ケ浜浦は,風待港として北前船の寄港地でもあり,港には船宿や貸席(遊女屋)もあった。浜崎は,慶長13年の萩城築城以前から漁村であり,海上交易の中継地で,城下町成立後は漁港・商港として萩城下の海への玄関口となった。嘉永4年の浜崎町人358軒のうち,小売商と問屋が過半数を占め,小売商は魚商が3分の1を占め,問屋は魚問屋が一番多く,次いで廻船問屋の順であった(山県家文書)。浜崎魚市場は明治期~大正期が最盛期で,国内有数の魚市場として繁栄し,蒲鉾製造・スルメ・フカヒレ・粕漬・ウニなどの加工業が発達。昭和60年の漁業実績は,年間漁獲高1万2,780t・漁獲額54億円余。漁船数785隻,うち10t以上の沖合漁船110隻・沿岸漁船675隻。中小畑地区は,小型機船底引網を主とし,一本釣り・延縄が行われる。越ケ浜地区は,長崎・唐津を基地とした東シナ海・黄海方面のアマダイ・フグなどの延縄が主体であるが,近年は時期により日本海の大和堆中心のイカ釣漁業への転換が急増し,沖合漁業の根拠地としての性格が強い。浜崎地区は小型機船底引網を主に,一本釣り・引網漁業を営み,水産加工業が発達。萩漁港全体の主な漁法は敷網・まき網・釣り・大型定置網の順で,主な魚種はイワシ・アジ類・ブリ・イカ類・タイ類・シラス。漁業組合員数1,165人,うち正組合員数826人(以上,港勢調査表)。萩漁港を利用する船は,県外船も長崎県59・島根県25・鳥取県15などと多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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