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東南部町
【ひがしなべちょう】


旧国名:長門

(近世~近代)江戸期~昭和31年の町名。江戸期は豊浦郡赤間関に属し,長府藩領。関門海峡に面する。長府藩初期の南部は赤間関七か町の1つ(下関二千年史)。「道ゆきふり」に見える「なへの崎」にあたる。もとは南部と呼ばれる一村であったが,のち東西に分かれた(下関市史)。また,「長門国志」に南部山城址は赤間関東南部町にあると記され,中世の城跡を伝える。この城があったところから当町は城の腰と呼ばれていた(下関市史)。元文4年の地下上申絵図に「城ノコシ」と見える。寛政4年の家数307・人数1,113うち男588・女525(赤間関在番支配下の人口調/下関市史)。当町は西南部町と並んで問屋が多く,御用達商人も多い。天保9年の人別名前控帳によれば,家数275・人数1,010(武士,神官,僧侶を除く)で,商家で占められている(赤間関人別帳)。長府藩の赤間関在番役所が当町に置かれていた。唐戸湾埋立前は神宮司町への渡し船があり(下関市史),御国廻御行程記には西之端町への橋や高札場が記されている。沿岸には素倉があり,問屋中が交代で荷物の夜番をしていた(関の町誌)。神社には大国神社があるが,同社は享保年間に出雲大社を勧請,安政5年に城山のふもとに社を建立した(下関市史)。寺院には大乗寺があったが,明治23年,長府町にあった国分寺が同寺跡に移転(下関市史)。国分寺の木造不動明王立像,絹本着色十二天曼荼羅図は国重文。当町の西側一帯は王司町と通称され,これは大隆寺の山号の金剛山教王院王子坊から名づけられたという(関の町誌)。馬関駅停車場周辺の埋立て工事は王子山の切取り土砂によって完成。嘉永5年に山内昌七郎が寺子屋を開設,慶応2年に廃止(下関市史)。明治12年赤間関区,同22年赤間関市,同35年下関市に属す。当町内の小字・小名に王司町・弁財天町・五間小路・菊屋小路・虎屋小路・王司小路があった(県風土誌)。明治7年,赤間関在番役所跡に第15大区会議所が置かれ,のち大区扱所,赤間関区役所となり,明治22年市庁舎となる。昭和20年の空襲で庁舎を焼失。のち王江小学校,旧西部74部隊跡へと移り,同30年当町へ庁舎を新築。明治9年当町に裁判所が設置されたが,同19年貴船町に移転。同33年赤間関郵便電信局が外浜(とばま)町から移転(下関市史)。のち下関東郵便局となったが,昭和50年山の田町に移転した。旧局舎は下関南部町郵便局となる。大正10年,電信部門が独立して下関電信局が創設され,昭和4年隣接地に新築移転,同24年下関電報局となり,同41年上田中町2丁目に移転した(下電百年史)。ほかに赤間関警察署・赤間関米穀株式取引所・赤間関高等小学校,大隆寺に文関小学校があった。大正9年,文関小学校跡に下関中学校(現下関西高校)が創設。当町には商店が多く,銀行では明治11年創立の山口第百十国立銀行(現山口銀行)があったが,のち観音崎町に移転。大正初期に当町の沿岸から対馬航路が開設されたが,昭和10年に中断,同30年に再開されたが,のち廃止された。同27年,花卉市場が唐戸町から移転したが,同55年椋野町に移転した(下関市史)。世帯数・人口は,大正14年367・1,840,昭和10年314・1,712(男881・女831)。同20年の空襲で町の大半を焼失。昭和29年,南部町・唐戸町・田中町となり,残部は同31年南部町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7194196