豊西郡
【ぶんざいぐん】

旧国名:長門
(中世)鎌倉期~江戸初期に見える私郡名。長門(ながと)国豊浦郡西部の汎称。現在の豊浦町全域と下関市勝山・川中・安岡・吉見の4地区が郡域と推定される。寿永3年2月源平争乱に平家が摂津一ノ谷に城郭を構えた時,長門国の郡西大夫良近は郡東司秀平・厚東入道武道らと共に平家方に加わった(源平盛衰記)。これより以前「長門国守護職次第」によると「豊西郡司三代 一貞平 二秀盛 三広元」の名が見える(続群4上)。そのうち広元について「吾妻鏡」の文治2年8月5日条によると,源頼朝は院宣を奉じて,新日吉社領長門国向津奥荘の地頭である豊西郡司弘元を,年貢未済・武士狼藉の謀反人として所帯を没収している。この弘元と広元とは同一人物と思われるが,豊西郡司の姓氏は不明である。豊西郡名の初見は文治元年9月7日付の源範頼下文案(住吉神社文書/鎌遺4)で,「下長門国在庁官人等,可早以豊西郡内吉永別苻四至内荒熟田畠」とみえる。下って寛正2年6月29日付の「従山口於御分国中行程日数事」には,訴人の申状によって召文をしても,遅参がちで日数がかかることが多かったため,山口・豊西郡間は2日,ただし宇賀・河棚に至っては2日路半,請文の到来日限は11日と規定している(大内氏掟書)。文明13年6月の一宮神領豊東・豊西両郡田数并土貢注文案写(住吉神社文書/住吉神社史料)では,「豊西郡分」として一宮荘・吉母村・安成名・安岡名・末松名・延行名・吉永荘・有富名が見える。また,天文14年11月20日付の毛利元種知行状に「長門国豊西郡黒井・厚母・室津三ケ郷」とあり,年欠4月10日付の内藤隆春所領注文には「豊西郡之内」として宇賀郷・正吉郷・引地時安名・川棚荘が見える(閥閲録114・99‐1)。いずれも郡域を知り得る史料である。なお,文禄4年12月2日には毛利輝元が「豊西郡司」に日隈神兵衛尉を補任し,100石の地を与えている(同前160‐1)。慶長の「長門国絵図」によると,豊西郡は石高1万1,341石余・田数1,075町余・畑数367町余・物成高8,132石余で,郡内には宇賀郷・川棚・吉永・黒井・厚母・室津・吉母・正吉・吉見・中畑・福江・蒲生野・安岡・富任・有富・綾羅木・秋禰・一宮・勝屋・薭田・赤田・蓋井の村々が見える。ただし,豊東郡に属す山田(高393石余)のうち32石余が,同じく府中(高1,031石余)のうち116石余が,それぞれ豊西郡分であるとする。慶長15年の検地帳によると,宇賀・河棚・吉永・黒井・室津・吉母・厚母・正吉・中畑・福江・安岡横野・富任・綾羅木・蒲生野・在富延行・伊倉熊野稗田・秋根・一宮勝屋・赤田・蓋井島・長府・山田の村々が豊西郡に属すが,例えば,内日郷の赤田代の場合,前記文明13年6月日一宮神領田数并土貢注文案によると豊東郡の中に見えるものの,弘治3年8月28日某宛行状写(閥閲録60)では豊西郡とあるなど,郡境では多少異同が見られるようである。近世初期の寛文4年諸郡の廃合が行われ,豊東・豊西・豊田の3郡を豊浦郡に復して私郡は廃止された(毛利十一代史)。なお,南北朝期暦応2年・正平7年の「住吉神社文書」に「豊西南条安成名」とある(住吉神社史料)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7194416 |





