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三田尻塩田
【みたじりえんでん】


防府(ほうふ)市浜方・新田に所在した塩田。防府平野における近世干拓地の前縁部に成立していた大塩田で,東側から横入川・古浜・中浜・鶴浜・大浜をいう。広義には田島の西海岸の西ノ浦塩田や三田尻湾東岸の江泊塩田を含めて三田尻塩田と呼ぶことも多い。横入川と古浜は,元禄12~14年萩藩4代藩主毛利吉広によって造成が進められた公儀開作,三田尻大開作約230町歩に及ぶ干拓地の西南部を占め,はじめ1町浜87枚として開かれたが,その後1町5反平均に地割変えし,横入川は12軒浜,古浜は27軒浜となった。浜鎮守は三田尻村の鞠生松原の厳島神社。1町5反を1軒浜とする古浜の入浜式塩田法は,元禄6年播州赤穂より大島郡小松塩田に,次いで三田尻古浜塩田に導入されたもので,従来の家族労働を主とする百姓小浜的なものから規模の大きい資本性の雇用労働組織へと転換する新しい製塩技術と形態を確立したものとして注目された。中浜は,享保2年厚狭毛利家(毛利就久)によって造成された勤功開作で,中野開作の南部の18町余を塩田としたもので,13軒浜であった。鶴浜は,宝暦2年藩士堅田元武が中浜塩田の沖側,古浜塩田の西海面を勤功開作として干拓し,潮留め工事を完了したが,その後しばしば堤防が決壊し,明和元年上地して撫育方が修築,塩田面積33町4反,22軒浜とした。南側は海で,ほかの三方に潮入川を回らす第一級の枡築浜であった。鶴浜の中央やや西寄りに厳島神社を勧請して浜鎮守とした。大浜は,鶴浜の西側海面,中関までの間の浅海を,明和元年撫育方が干拓工事に着手し,同4年に築立てを終了した大塩田で,開作総面積127町余のうち,8町余の畑地などを除き,1町5反を基準とした74軒浜からなり(享保元年大浜御開作絵図),東から一ノ枡・二ノ枡・三ノ枡・四ノ枡に区画され,いずれも典型的な枡築浜であり,その北側に北浜(22町,14軒浜)があった。浜鎮守は中ノ関の厳島大明神社と塩釜明神社であった。明治中期の防長塩田之図によれば,古浜は三輪屋・鶴屋など40軒,中浜は塩田屋・諏訪屋など13軒,大浜は長門屋・高来屋など75軒によって構成されている。昭和5年第2次整理で横入川の24町5反,同13年北浜の26町5反が廃止され,残りは同34年第3次整理で全廃。塩田跡地の利用では,三田尻工場地区に近い古浜が早く工場の進出を見,次いで鶴浜は鉄工団地として工場が集まり,最近まで利用が遅れていた大浜も,西ノ浦塩田跡地に同57年設置された東洋工業自動車工場の関連工場が進出している。旧塩田の遺構としては,大浜周辺の塩入川の堤防や北浜の南側土手の東隅から大浜北岸土手にかけられた石橋が当時の景観をしのばせている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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