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柳井塩田
【やないえんでん】


柳井湾沿岸に所在した柳井浜・宮本浜・高須浜・小田浜の4塩田の総称。狭義には柳井古開作地先の柳井川デルタ地帯に,約24町歩の入浜式塩田として,文化7年岩国藩によって開築された柳井浜塩田をいう(柳井市史)。柳井浜は,中央の堀川(中川)を境に東浜と西浜に分けられ,東浜が1番浜から7番浜まで,西浜が8番浜から13番浜までの計13軒の塩浜数であった。この区画割は,昭和29年に流下枝条架式塩田に転換するまでほとんど変わらなかった(平生塩業組合)。同34年第3次塩田整理により廃止,翌年には柳井塩田会所も解散した。柳井浜築立てにあたって,北東側の柳井が岩国藩領,南側の伊保庄が萩藩領上関宰判の支配地で,築立て予定地が両者の勢力の交錯する範囲であったため,海上の領有権をめぐる争いが起こった。話し合いの結果,文化4年伊保庄柳井和議申合が成立,翌5年鍬初にこぎつけている(柳井市史)。なお,築立て当初は荒地で預り人も決まらず,前途多難を思わせたが,文化10年13軒のうち9軒浜を,代銀275貫目で岩田村(熊毛郡大和町)の国光家へ売り払われ落着した(平生塩業組合)。現在跡地の大部分は,日立製作所の工場用地になっている。遺構としては,中ほどに浜鎮守であった蛭子神社と,東西両浜を結ぶために堀川に架けられていた石橋の天津橋(地元では橋脚がない橋なのでゆうれい橋と呼ぶ)などが現存する。宮本浜は,柳井浜の東方にあり,宮本開作の地先に築き立てられたもので,岩国藩により天保2年着工,同10年完成した。5塩戸・7町歩余で三本松浜とも呼ばれた(平生塩業組合)。明治33年台風で堤防が決壊して廃田,その後養魚場や農地に,一時は競馬場・オートレース場となったこともあるが,現在は工場と卸売団地になっている。柳井浜の南,土穂石川を隔てて高須浜1塩戸・2町があった。上関宰判所轄の塩田として文化年間開築,のちに柳井浜会所に属して十四番浜とも称された。大正2年廃止されて農地となる(柳井市史)。高須浜より熊毛半島を南へ約1km下った所に,3塩戸・5町歩余の小田浜があった。厚狭毛利の御手開作で,天保4年完成。うち1番浜は明治41年風浪のため廃止,2・3番浜は昭和30年台風災害を受け休止,廃田となった(平生塩業組合)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7194787