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忌部神社
【いんべじんじゃ】


徳島市二軒屋町2丁目にある神社。延喜式内名神大社。旧国幣中社。祭神は天日鷲命。勢見山中腹に位置する。創建年代は未詳。「日本書紀」や「古語拾遺」によると祭神天日鷲命は阿波忌部氏の祖で,天太玉命に従って木綿を作り,その子孫が阿波国に穀麻の種を植えたという。それにより郡名を麻殖(おえ)郡と称し,天日鷲命は麻殖神とも呼ばれた。子孫の阿波忌部氏は天皇即位の大礼である践祚大嘗祭で木綿などの御贄を奉るようになった(古語拾遺・延喜式)。「続日本後紀」嘉祥2年4月2日条に「阿波国天日鷲神」を従五位下に叙したとみえる。その後貞観元年正月27日に従五位上へ進み,元慶2年4月14日には正五位下,さらに同7年12月28日従四位下に昇叙している(三代実録)。「延喜式」神名帳麻殖郡条では「忌部神社〈名神大,月次新嘗,或号麻殖神。或号天日鷲神〉」とある。また承暦4年6月10日の神祇官御体奏では御在所平安のために祓いを行う神社の1つに「斎部神」の名が見え(朝野群載),平安末期の成立とみられる「戒壇院公用神名帳」にも「忌部大明神」とあるなど(続群3上),朝廷からの崇敬も篤かった。延久2年6月28日付太政官符によると,忌部神と天石門別八倉比売神に対する祈年祭・月次祭などの奉幣を阿波国司が怠っているため,国司はこれらの幣物を神祇官で受取り確実に奉幣するように命じられている(忌部神天石門別八倉比売神祭典文書/徴古雑抄1)。室町期には当社を中心にして麻植・美馬・三好郡の18か寺が寺院団を形成,忌部十八坊と称した。しかしその後兵火により焼失,社地も不明となった。明治4年の社格制度発足に伴って,延喜式内名神大社忌部神社を国幣中社に列格することになった。しかし,その社地をめぐって諸説があったが,政府は明治7年麻植郡山崎村の天日鷲社(現麻植郡山川町山崎忌部神社)を忌部神社と決定,鎮祭した。しかし異論が提出され,同14年には美馬郡西端山村(現貞光町西端山)の五社神社が忌部神社とされた。このような神社の正蹟争いを避けるため,政府は同18年に新たに徳島市勢見山の現地を社地に選定,同25年に遷座鎮祭し,社地論争に終止符を打った。昭和20年戦災のため焼失,現社殿は同43年に再建されたものである。例祭は10月19日。崇敬者は県下一円に及び,徳島県を代表する神社の1つになっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7195257