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海部城
【かいふじょう】


鞆(とも)城とも呼ぶ。中世~江戸初期の平山城。海部郡海部町奥浦に所在。築城年代は不明。国鉄牟岐(むぎ)線海部駅の東方600mにある標高50mほどの独立した小山に位置する。現在は陸続きであるが,隣接する海部中学校および海部東小学校の敷地には往時は海部川の支流が流れ,南側の鞆浦港へ注いでいたため,孤島のような状態であったと考えられている。城下に良港を持つ一種の海賊城である。山は全体に急斜面で,やせ尾根であるため,35m×20mほどの本丸をはじめ,全体に小規模な曲輪が16~18ほど散在しまとまりのない構造と石垣も各所に見られるが,近世城郭としては小規模のものである。城の北方には観音庵跡があり,森志摩守と判形人の墓がある。また,城山の東側の新興住宅地は近世の陣屋跡である。古くからこの地にあった城は,鞆浦東端にある法華寺裏山の古城である。いつから現在地に移ったのかは不詳であるが,一説に元亀2~3年頃に海部左近将監友光が移したという。海部氏は三好氏の臣として県南地方で重きをなしていたが,のち天正3年に城を留守にしているところを長宗我部元親に攻められ落城した(城跡記・県史)。元親はこの城を阿波平定の拠点とするため,弟の香宗我部親泰を置いて守らせたが,のち親泰は牛岐(うしき)城(阿南市富岡町)に移り,その後を田中長政(一説に田中市之助政吉)が守った(阿波志)。天正13年に豊臣秀吉の四国平定により長宗我部元親が敗退すると,阿波国に入部した蜂須賀家政は,南方の守備のためこの城に城代として大多和長右衛門正之を置いて,兵300を付けて守らせた(阿淡年表秘録)。海部城はこのとき全面的に改築されて現在の姿となった。のち城は中村重友が守ったが,しばらくして,中村氏は池田城(三好郡池田町)の城代となり,代わって益田宮内が城番となった。その子益田豊後の時代には,海部郡を蜂須賀家から独立させて大名になろうとした謀反,いわゆる海部騒動(豊後事件)が起こり,益田家は断絶した。当城は寛永15年に一国一城令により廃城となり,代わって東側に陣屋(御番所)が置かれた。このほか海部騒動に備えるために,寛永17年に判形人36名が城下へ置かれた。




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「角川日本地名大辞典」
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