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勝占神社
【かつらじんじゃ】


徳島市勝占町中山にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は大己貴命・事代主命・須勢理比売命・少彦名命・玉櫛姫命。杉尾大明神とも称した。国鉄牟岐(むぎ)線地蔵橋駅から南へ800mほどの丘陵地帯に位置する。創祀は未詳だが,「延喜式」神名帳勝浦郡条にみえる「勝占神社」に比定される古社である。武運の神として信仰され,元暦2年源義経が屋島へ向かう途中,当社で戦勝を祈願して武器を奉納したという。その際義経が山へ登り軍勢を見たのでその山を「勢見山」と称した。のちに蜂須賀家政が当社境内にあった金毘羅社を眉山南麓に遷座したため勢見山の名は眉山南麓一帯を呼ぶようになり,もとの勢見山は鉢伏山と改称した。弘安4年正月日付の棟牌に「新建立宮殿改立替勝占神社一宇 願主当国代官司」とあり(勝浦郡勝占神社棟牌/徴古雑抄4),年月未詳の棟牌には「瓊 奉新建立杉尾勝占大明神御社一宇 檀主細川讃岐守持隆公御建立」とみえるところから(同前),代官・守護など歴代領主が崇敬を寄せていたと思われる。天正年間の長宗我部軍との騒乱の中で,社領は衰微し証文も紛失したが,蜂須賀家政の阿波入国後,由緒に従って社領が寄進され社殿も造替された(勝占神社旧跡之事/続徴古雑抄1)。慶長7年9月3日には杉尾山8丁内の竹木伐採と殺生に対する禁制が家政により出され,同18年10月2日には先の禁制を遵守するよう定めた掟が藩主至鎮から出されている(同前・勝浦郡志)。その後寛永12年に2代藩主忠英が社殿を寄付し毎年の神事料米8石を奉納した(勝浦郡志)。また享和2年に11代藩主治昭も社殿を再建しており,藩主の崇敬も篤かったようである。寛保神社帳には「西須賀村 式杉尾大明神 神主大松村冨川安大夫」とあり(続徴古雑抄1),「阿波志」では神田は7町5反余,正一位に叙されたとみえる。明治5年社名を勝占神社と改称し,同8年郷社に列した。例祭は10月9日。特殊神事に虫祈祷がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7195638