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上一宮大粟神社
【かみいちのみやおおあわじんじゃ】


名西(みようざい)郡神山町神領字西上角にある神社。旧郷社。祭神は大宜都比売神。埴生女屋神社とも称す。地元では大阿波さんの通称で親しまれている。古くは一宮明神・田ノ口大明神・上一宮大明神・大粟上一宮大明神などとも称した。山間部を蛇行して流れる鮎喰(あくい)川とその支流に挟まれた山裾に位置する。祭神の大宜都比売神は埴生女屋神・大粟比売神・八倉比売命とも呼ばれ,五穀・養蚕の神である。この神が伊勢国丹生郷より阿波国に移って国土を経営し,粟を蒔いて一帯に広めたといわれ,阿波(粟)国の開祖とされる。大粟山は名西山分の諸山の総称で,その各村を大粟谷・粟郷とも呼ぶ。創祀は未詳だが「三代実録」元慶7年12月28日条で従五位下から従五位上に昇叙された「埴生女屋神」のことであろうか。大宜都比売を遠祖とする粟凡直氏の後裔が世襲で祭祀を行った。平安初期には国司田ノ口息継の一族が祖神として崇敬,田ノ口大明神の名はそれに由来するという。久安2年の河人成俊等ノ問注申詞記によると,当社宮司河人成高の舎弟成俊等が延命院荘に乱入し乱暴狼藉を働いたという解状を延命院所司が提出しており,成高等は「寺家の御威を憚らず」僧侶・住人に危害を加えたとある(阿波国荘園史料)。その後暦応4年に阿波国守護小笠原長宗が,代々奉仕してきた粟飯原家に代わって大宮司となり姓を一宮に改め,以後その子孫が相次いで一宮大宮司と称して祭官を兼ねるようになった。長宗の子成宗は一宮城(徳島市一宮町)を築城し,城下に分霊を勧請して下一宮としたという。のちに一宮成行が城主と祭官を分け,下一宮を城主分として長男の成良に,上一宮を神領分として次男の成直に祀らせた。神領村の名はこれに由来する。のち一宮の呼称が下一宮に移ったのは一宮氏の居城と神社が同所にあったために一般化したのであろう。勧善寺所蔵大般若経奥書には「嘉慶二年〈戊辰〉二月五日,取筆,上一宮住金剛仏子舜海」とみえるが(徴古雑抄3),舜海は供僧であろうか。また同奥書には「于時嘉慶第二〈戊辰〉孟春廿六日,大粟山神宮寺之大夫公金剛仏子覚賢」「阿州名西郡大粟山上一宮長満寺」とも記されている(同前)。また「山科家礼記」文明13年1月16日条には「阿州一宮とて一社候也,又麻粟・大庭のうちニ大粟大名(明カ)神とて大庭候也,両社御座候也,上のか下御さかり同事之由,一宮入道へ申候也」とみえる(史料纂集)。一宮は大粟大明神が移ったもので同じものであったとなっている。江戸期には徳島藩主蜂須賀氏が崇敬し,藩祖家政は供田および薪山を寄進,歴代藩主も祭資や神馬を奉納した。別当は神宮寺で(寛保神社帳/続徴古雑抄1),寛政3年阿波国古義真言宗本末帳には,京都大覚寺末として名西郡神領村に神宮寺およびその末寺として長満寺がみえる(江戸幕府寺院本末帳集成)。明治3年に社名を埴土女屋神社に改めたが同28年に上一宮大粟神社と改称し,郷社に列した。例祭は10月11日。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7195660