大工町
【だいくまち】

旧国名:阿波
(近世~近代)江戸期~昭和17年の町名。江戸期は徳島城下の町人町の1つで,明治22年からは徳島市の町名となる。新町川から,船場町,西新町・東新町・古物町に続く,三筋目の町で,西の眉山側は北山路となっていた。貞享2年の徳島市中町数並家数によれば大工町筋は,家数123,東西3町47間半と記されている(民政資料)。現東大工町には現在も家具屋が集中し,第2次大戦までは,指物大工が軒を並べる職人町を形成していたことから,江戸期の大工町も指物大工の町であったと思われる。「渭津人」に当町の人数について「一家持廿七人,一借家人百七拾七人」と見え,借家人の内訳は浪人1人・女65人,残りは男という構成になっていた。なお弘化3年の町年寄に敦賀屋源兵衛と元木屋大左衛門の名が見える。敦賀屋は小間物商で,4代目源兵衛は文化9年に年寄役に仰付られ,文政3年には小間物屋裁判となり,寛政元年藩に冥加金を出して「小間物屋壱統」に加えられている。なお「阿波志」によれば「西大工街即第一坊,大工街第二坊,南大工街即ち第三坊並在南新街之南」と見え,西大工町・大工町・南大工町があり,大工町は3丁からなっていたことがわかる。この第二坊は中大工町とも呼ばれた(徳島市史別巻)。明治22年の戸数426・人口1,624,財政規模収入433円83銭・支出474円93銭,世帯数・人口は,昭和5年263・1,202,同10年281・1,272(自治五十年小史)。同17年西新町1~5丁目・南新町西1丁目・西大工町1~5丁目・東大工町1~3丁目・西山手町1丁目・新町橋1~2丁目・紺屋町1~2丁目・東山手町1~3丁目となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7196430 |





