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竹原荘
【たけはらのしょう】


旧国名:阿波

(中世)平安末期~戦国期に見える荘園名。那東郡のうち。「兵範記」保元2年3月29日条に引用された同年12月25日付の太政官符(大成)に「一,故左大臣(藤原頼長)領……阿波国壱処 竹原庄」とあるのが初見。当荘は左大臣藤原頼長の所領であったが,保元の乱で敗死したため没官され,後白河院領に組み入れられている。長寛元年9月25日の二品家政所下文(阿波八鉾神社文書/平遺3268)に「二品家政所下 一院御領阿波国竹原野御庄鎮守八桙社神官等」とあり,天皇・上皇の長寿と二品家ならびに子息の加護,年貢輸送船の海上安全を祈願して,金泥法華経などの経典と当荘内の水田5反を寄進している。なおこの文書については検討の余地がある。八桙神社は現在の阿南市長生(ながいけ)町宮内にあり,大己貴命を祀る延喜式内小社の古社であり,長国造の氏神である。下って鎌倉期の承元3年8月日の阿波竹原荘政所下文(隆善寺文書/徴古雑抄1)に「竹原御庄政所下 定補五ケ所惣講師職事」とあり,僧寛賢が補任されている。嘉元4年6月12日の永嘉門院(瑞子女王)御使家知申状并昭慶門院(憙子内親王)御領目録(竹内文平氏所蔵文書/愛媛県史資料編古代中世)に「一,今林准后御領……竹原庄〈長隆,被進遊義門院〉」とあり,富吉荘(現藍住町)および当荘に「為安楽光院御領,室町院御遺領内也,被付于中務御遺跡之時,入道将軍所被領知也,其後分明之時,為亀山院御分,于今御知行無相違,根本隆房卿之旧領也,非実氏公之領」と注記があり,当荘は安楽光院の寺領で,室町院領に含まれていたが,その後宗尊親王から亀山院に伝領されて遊義門院領となったことが知られ,西園寺実氏の所領ではなく,四条隆房の旧領で,当時は葉室長隆が領家であった。また「公衡公記」乾元2年正月23日条の昭訓門院御着帯の記事によれば,判官代葉室長隆は乾元元年の冬に昭訓門院庁の年預に補され,料所として「阿波国竹原庄」を賜ったという(纂集)。元弘元年2月3日の清信去状(宮内庁書陵部所蔵文書)に,「而去嘉暦弐年為阿波国竹原庄公用,雖令借用日吉上分物用途参拾貫文,彼庄得替之間,不及糺返件用途」とあり,当荘の公用として日吉上分物30貫文を借りていたが,得替されたため,相伝の私領梅津荘内の田地4反を去り渡している。下って南北朝期の観応2年正月7日の細川頼春安堵状(安宅文書/徴古雑抄2)によれば,「阿波国竹原庄内本郷地頭職」を安宅一族中に安堵している。ついで文和3年2月日の橘頼貞清原氏実連署寄進状写(隆善寺文書/徴古雑抄1)に「阿波国竹原庄本郷恒貞名内畠之事」とあり,八幡宮前又五郎男屋敷内にある畠2反が,又五郎男が罪科人となり忌があるという理由で泉福寺に寄進されている。また永和2年2月9日の梵祚宛行状写(同前)では「宛行 竹原本郷地頭御方若宮免事」とあり,3反の田畠(うち田1反は正清田,畠2反は敷地)を泉福寺の坊主に宛行っている。下って明徳3年2月9日の年紀のある泉福寺鐘銘(隆善寺蔵/徴古雑抄4)には「敬白 阿州南方竹原本郷泉福寺」とある。なおこの泉福寺は現在廃寺であるが,本郷の後身と推定される江戸期本庄村の泉里(現阿南市長生町字宮ノ本)にあったという。文明8年5月15日の細川持常安堵状(柏木文書/徴古雑抄3)では,「阿波国長山仁宇谷郷并竹原五箇庄」を高4,500貫で仁宇対馬守に安堵している。荘域は現在の阿南市長生町・宝田町を中心とした地域に比定される。なお江戸期の「阿波志」那賀郡の項には「竹原荘」が見えるが,村名などの記載はない。また平城宮から出土した木簡に「阿□⊏ ⊐竹原郷」と見え(平城宮木簡概報15),当地を指す可能性も考えられるが,未詳。




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「角川日本地名大辞典」
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