富田藩
【とみだはん】

旧国名:阿波
(近世)江戸期の藩名。徳島藩2代藩主蜂須賀忠英の孫,飛騨守隆重は,江戸幕府の詰衆に列していたが,延宝6年10月19日に5代藩主綱矩から同藩領のうち新田5万石を割譲され,富田藩を立藩した。隆重の屋敷のある徳島城下富田(現徳島県庁)を居所とし,富田新田藩ともいう。徳島藩からの割譲に際し,地方の調査に藩臣の岩田彦之丞・谷川六郎右衛門・長浜平左衛門・仁尾安右衛門が当たり,阿波国に2万石と淡路国に3万石の地を確定した。天和2年の「飛騨守様江被進御地方之御帳」「飛騨様江被進御地方之薮御帳」(蜂須賀家文書)によると藩域の村々とその石高・百姓人数は,板野郡では木津野村727石余・156人,北大津村617石余・170人,南大津村547石余・115人,笹木野村397石余・120人,備前島村386石余・70人,古城村363石余・83人,加賀須野村325石余・50人,平石村303石余・43人,勝瑞村149石余・36人,中喜来村242石余・人0,板東村221石余・112人,中窪村131石余・54人,賀須谷21石余・10人,里浦1,180石余・450人,阿波郡では中野村151石余・55人,水田村114石余・80人,美馬郡では上野村363石余・101人,名東(みようどう)郡では南新居村160石余・38人,北新居村111石余・30人,高崎村129石余・35人,名西郡では天神村156石余・25人,石井村201石余・82人,麻植(おえ)郡では東川田村105石余・73人,鴨島村324石余・221人,西川田村119石余・68人,勝浦郡では赤石村154石余・人0,芝生村462石余・44人,渋野村66石余・6人,大松村333石余・48人,那賀郡では坂野村184石余・40人,櫛淵村217石余・47人,坂野和田島間新田207石余・人0,南荒田野136石余・26人,色ケ島121石余・25人,西方村219石余・53人とあり,この阿波国分は「高合壱万石八斗四勺,請夏秋納升三ツ七分五厘余,物成合四千五百拾壱石壱斗,京升,内麦合千七百四拾弐石,京升銀合六貫八拾壱匁七分,桑綿合九百三拾三匁,人数合弐千四百四拾弐人」と記される。また,「御家頼被下置御知高所付」として,阿波国分には阿波郡学村・西林村・郡村・大俣村・伊沢村,那賀郡房崎村・島尻村・三倉村・岩脇村・荒田野村・大谷村・桑野村・坂野村・橘浦・学原村,三好郡芝生村・太刀野村・賀茂村・足代村,板野郡中村・西条村・原田村・東貞方村・五条村・鶴島浦・大代村・大寺村・那東村・七条村・下庄村・桧村・池谷村・北村,勝浦郡日開野村,麻植郡桑村,名西郡下六条村・桜間村・白鳥村,名東郡北岩延村・井戸村・敷地村・和田村・黒田村・佐野須賀村・早淵村が見え,家臣団の総数195人,その禄高3,357石余となっていた。家臣団は番頭に林主馬はじめ7人,御鉄砲頭189人,御歩行60人,小奉行40人,格外1人,小頭8人,賄所下代2人,勘定下代1人,薪方下代13人のほか坊主などからなっていた。その後,隆重は宝永2年12月26日に隠居し,同日隆長が当藩2代藩主を嗣ぎ,正徳4年9月17日に死亡して,同年11月16日に正員が襲封する。正員は享保10年7月4日に宗家である徳島藩の嫡子となったため当藩5万石は徳島藩に返還されて当藩は廃された。なお,正員は宗員と改名し,享和13年1月23日徳島藩5代藩主綱矩の隠居後,同藩6代藩主となった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7196725 |





