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八幡神社
【はちまんじんじゃ】


麻植(おえ)郡山川町川田字八幡にある神社。旧郷社。祭神は誉田別命・足仲彦命・息長足姫命・田心姫命・市杵島姫命・湍津姫命。川田八幡神社とも称す。古くは八幡宮と称した。川田川西岸にある市街地の西はずれに位置し,付近を県道井上川田線が通る。創立年代は未詳だが,古くから忌部氏の崇敬が篤かった。嵯峨天皇が祈願所として忌部宿禰に社殿を再建させ,また文治5年には源頼朝の命により再興されたと伝える。頼朝はその後建久8年にも一門繁栄を祈願して造替しており,同年11月5日付棟札によるとその時の大檀那は阿波国守護小笠原長経,代官神主は忌部大将早雲高房大夫であった(麻殖郡川田村八幡宮棟札/徴古雑抄4)。その他にも細川氏・土肥氏などを檀那とする嘉元3年・嘉慶2年・永享11年・天文2年・元亀元年・元和3年・慶安元年・天和2年等多くの棟札を有しており,歴代領主から崇敬されたようである。また,その中で,天和2年12月付の棟札に本願主および遷宮導師として高越寺法印である宥保の名がみえるところから(同前),高越寺(山川町木綿麻山)との関わりがうかがわれる。徳島藩祖蜂須賀家政入国に際しては「高越蔵王権現,種穂社」とともに武運長久の祈祷を行い,慶安3年には2代藩主忠英の参詣があったという(早雲家奉祀東西両川田村神社旧記/徴古雑抄7)。寛保神社帳には「東川田村 八幡宮 神主東川田村早雲治部」とみえる(続徴古雑抄1)。明治40年八幡神社と改め,郷社に列した。南北朝期の井上城主細川頼有の頃から奥川田地区は百手神事(お的),川東地区は神代お宝踊り,西川田地区からは獅子舞を奉納するならわしとなっている。毎年10月22日の例祭は川田祭りとよばれ大変にぎわう。その秋祭りの神賑行事として奉納される神代お宝踊りは,雨乞踊りの一種で,明治末期一事中断されていたが大正初期に川東地区の人々により再興され,昭和36年県の無形文化財に指定された。なお社殿配置は,県下では珍しい大きな向拝のあるトンボ型として知られている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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