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蛭子神社
【ひるこじんじゃ】


那賀郡鷲敷(わじき)町和食字町にある神社。旧郷社。祭神は蛭子大神・天照皇太神・素盞嗚神など。古くは和食大明神・鷲敷神社・蛭子大明神と称した。那賀川右岸,支流中山川が那賀川に注ぎ込む扇状地に位置する。地元では「おいべつさん」の名で親しまれ,和食・中山両村の産土神として崇敬される。徳治3年の大洪水によって社記・旧記等を流失したため,創祀は未詳。天長2年の撰と伝える舎心山太竜寺縁起に(続徴古雑抄1),天長2年に空海が鷲敷社を再興したとみえる。承和3年作と伝える阿波国太竜寺縁起(同前)には,空海が「和食明神」を崇め鎮守となし,また「和食明神」の素意を受けて修行したと記されており,太竜寺(現阿南市加茂町竜山)との関係がうかがわれる。また当社の東側台地に守護寺として満宝寺があったといわれる。徳治2年の大洪水で流失したが元応元年に再建,その後文安6年に藤原俊忠により本尊の薬師如来が修復された。しかしのちに廃寺となったという(鷲敷町史)。南北朝期~室町期に書写された大般若経奥書には「奉施入延野和食大明神 旦那藤原亘俊 悪筆終 長賢禅僧」「奉施入阿州那賀山延野郷和食大明神 于時永徳第三〈癸亥〉七月念七日 藤原実俊 戒名契俊」などと記されており(鮎川村八幡松尾両社什物大般若経奥書/徴古雑抄3),当時の延野領主藤原氏の崇敬を受けていたと思われる。守護寺満宝寺の薬師如来を修復した藤原俊忠は同族であろう。永正2年に管領細川澄元が来住したが,この時流鏑馬の神事を奉納した由で,現在も祭礼には流鏑馬が行われる。江戸期には徳島藩主蜂須賀氏家臣で仁宇山城主山田氏が崇敬し,慶長5年・正徳2年・享保14年などたびたび社殿を造替している(棟札銘/鷲敷町史)。「阿波志」は「蛭子祠 和食村に在り 国初山田三哲行営と為して居る」と記す。また寛保神社帳には「和食村 蛭子大明神 神主和食村吉田石見守 別当大竜寺寺家悉地院」と記されている(続徴古雑抄1)。明治3年蛭子神社と改称,同5年郷社に列した。例祭は10月10日で神幸祭がある。また1月10日には戎祭りが行われる。なお,境内はボウランの北限自生地として県天然記念物の指定を受けている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7197193