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粟井神社
【あわいじんじゃ】


観音寺市粟井町にある神社。延喜式内名神大社。旧県社。祭神は天太玉命。相殿に保食神・天照皇大神・月読命を祀る。古くは刈田大明神などと称された。社伝によれば,阿波から来住した忌部氏の創祀と伝え,「生駒記」「西讃府志」など近世の地誌も忌部氏創祀の伝承を記している。また祭神も天太玉命とするのが一般的だが,「全讃史」は現在相殿に祀る保食命としている。「古語拾遺」には天太玉命の率いる神として手置帆負命が挙げられ,「讃岐国忌部祖也」との注記がある(群書25)。従って讃岐国にも忌部氏が存在したことは明らかだが,その所在地を当地に特定しうる根拠はない。社伝では,本来は現在地南方の岩鍋池の南岸に鎮座していたが(そこを古宮と称している),大同2年火災で焼失し,現在地に遷座したという。当社の遷座以前,現在地にはすでに杉尾神社が鎮座していたといい,社地付近からは弥生時代の石器・銅剣のほか,古墳も多く発見されている。旧苅田郡の郡家を当地に比定する考えも有力で,古代において有力な氏族の形成を想定できる。社伝に依拠する忌部氏の存在のほか,讃岐国出身で,旧郡名を冠した苅田首氏の名が「三代実録」に散見する。その1人苅田首安雄は貞観格の撰定に参画し,武蔵守にもなった人物である。この安雄は貞観9年11月始祖武内宿禰にちなんで紀朝臣を名乗ったという(三代実録)。当地が旧苅田郡紀伊郷であることを考えると,当地粟井地区は紀氏の本拠地と想定でき,安雄の育ったところという乳若屋敷跡の伝承もある。「日本紀略」延喜6年2月7日条で従五位下を授けられたと記されている「苅田神」は苅田氏の氏神で,当社遷座以前に鎮座していたという杉尾神社のことであろう。ともかく当社は,承和9年11月25日「粟井神」として名神に列せられ(続日本後紀),「延喜式」神名帳苅田郡条に「粟井神社〈名神大〉」と記される。中世以前は菩提寺が別当寺だったと思われるが,今は廃寺でその由緒は未詳。菩提寺は粟井川を挟んだ対岸の菩提山上にあった。社伝は寛弘元年・文禄2年・慶長5年の社殿造営を伝える。また永徳元年に正三位,文亀元年に従一位に叙されたともいうが,明確ではない。古く当社は刈田大明神と称し,苅田一郡をその神供料に充てていたが(全讃史・西讃府志),本来刈田明神は杉尾神社のことである。当社の方が発展したため混乱が生じ,当社が刈田大明神として旧苅田郡の産土神的存在となったものと考えられる(讃岐国官社考証)。近世には真言宗の大円坊が別当を務めた。大円坊は宝樹山西光院と号し,阿弥陀如来を本尊としていた(西讃府志)。大円坊は現在の極楽寺(観音寺市粟井町)で,当社祭礼に関する史料を保存している。明治12年県社に列格。10月16~17日の例祭には神輿3基のほか,太鼓台7基,獅子舞もあってにぎやかである。第2次大戦前には競馬もあった。神輿3基は,当社と,摂社須賀神社(祭神素盞嗚命),境内末社杉尾神社(同大穴貴命)のものである。粟井,杉尾,須賀の順に渡御するが,真ん中に位置する杉尾神社の神輿は,延喜式内社於神社のある粟井町上野地区の氏子だけに守られる。現在の本殿は18世紀後半の再建だが,八ツ棟造りの壮大なものである。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7197786