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生駒藩
【いこまはん】


旧国名:讃岐

(近世)江戸期の藩名。居城は香東郡(香川郡東)高松城。外様・大藩。17万1,800石。天正15年に豊臣秀吉より讃岐1国を与えられた生駒親正は,香東郡野(箆)原荘の海浜に築城を計画,翌16年に着工し3年後に完成させた。城名を隣郡の山田郡の高松の地名をとって高松城と名付けた。この高松城は海水を利用して濠がつくられた水城であり,その南に高松城下町の建設が進められた。寛永4年頃,天守閣は三重(内部は四重)でその西に本丸があった。城下町は東西9~10町・南北6町,町家数900(讃岐探索書),南に片原町・丸亀町・百間町・紺屋町・鍛冶屋町・大工町などの商人町・職人町,東に舸子町・塩焼町があった(生駒家時代讃岐高松城屋敷割)。生駒家は親正から一正・正俊・高俊と4代約50年間讃岐を支配した。生駒藩では慶長年間に入って検地を実施し,慶長2年の寒川(さんがわ)郡長尾庄塚原村検地帳,同4年の豊田郡姫郷内木之郷村検地帳,同7年の寒川郡富田庄中村検地帳がある。また寛永7年の寒川郡富田中村畑方検地帳が残っているが,寛永7年に大規模な検地が行われたことを示す史料は今のところ見当たらない。いずれにしろ生駒藩時代に讃岐における農民支配の基礎的な整備が実施されたわけであるが,農民の農業経営を安定させるためには,灌漑用水の確保が必要であった。讃岐は全国でも降雨の少ない地域であるために溜池の築造が近世初期から盛んに行われた。生駒氏時代に約960の池が築かれたというが(増補高松藩記),この溜池の築造に功績のあったのが西島八兵衛である。西島八兵衛は伊勢国藤堂藩の家臣であるが,生駒正俊の正室が藤堂高虎の女(実は養女)であったため,正俊亡き後の生駒藩政を手助けさせるために,高虎は西島八兵衛を讃岐へ派遣したのである。すでに生駒親正の頃に仲郡郡家村の大池,阿野(あや)南条郡国分村の関ノ池,香西郡笠居村の衣懸池が築かれたといわれる(生駒記)。寛永2年に再度讃岐へきた西島八兵衛は次々と溜池を築いたが,その主なものは香東郡川東村の竜満池,同郡川部村の小田池,阿野北条郡福江村の大池,三木郡氷上村の山大寺池,三野(みの)郡羽方村の瀬丸池,同郡麻村の岩瀬池,仲郡真野村の満濃池,鵜足(うた)郡炭所村の亀越池,山田郡西植田村の神内池などである。これらの中でもとくに満濃池の築造は著名である。満濃池は平安初期に空海が修築した池として知られているが,平安末期の元暦元年に決壊してのちは再築されず,以後450年間にわたって放置され,寛永年間のはじめには高350石の池内村となっていた。寛永5年から工事にかかり2年半の歳月を経て完成した。堤の長さ45間(82m),深さ11間(20m),池の長さ南北900間(1,630m)・東西450間(815m),池まわり4,500間(8,200m)であった。この満濃池の水掛りは,寛永18年で仲郡21か村・高1万9,869石,鵜足郡8か村・高3,160石,多度郡17か村・高1万2,785石,合計石高3万5,814石余となり,3郡にまたがり讃岐の石高のほぼ6分の1にあたっていた(満濃池水懸り高覚書)。西島八兵衛は高松城下東浜から山田郡新川への海岸線に福岡・木太・春日の新田,さらにその東に百石新田を開き(生駒記),また香東川の2つの流れのうち高松城下へ流れ込んでいた東の流れをせき止め,現在の香東川の流れだけにした香東川付け替え工事も行った。寛永4年の生駒藩の内高は22万1,000石余うち蔵入地9万4,636石余・給知役高9万9,472石余,御女中・寺社領2万6,880石余(西島文書),寛永10年は22万8,256石余(田20万7,637石余・畑2万619石余)であり(讃岐国絵図),同17年は23万3,166石余(寛永17年生駒氏惣高覚帳)。寛永4年から同17年までの間に1万2,166石余増えているのは溜池築造や新田開発による成果であろう。寛永16年の人数は15万93(男7万4,412・女7万5,681),100石取以上の侍327(生駒家讃州侍帳)。寛永末年頃の小物成は真綿63貫余・炭1,941石余・枌3,423荷余・塩7,764俵余・煎海鼠1,000桁・海鼠腸6斗・干鯛1,000枚・鰆ノ子150膓(小物成帳)。このうち塩は香東郡の1,361俵が一番多く,次いで香西郡1,188俵,山田郡の1,126俵となっている。元和7年第3代藩主生駒正俊は37歳で急逝し,その子高俊が11歳で遺領を継いだが,新藩主が幼少であるため外祖父にあたる藤堂高虎が生駒藩政を執った。寛永7年に藤堂高虎が死去してのちは,生駒高俊が高虎の子藤堂高次と高俊の義父で幕府老中の土井利勝を後見役として藩政をみることになったが,これ以後江戸家老前野助左衛門,同石崎若狭,これにくみする譜代家老森出雲,同上坂勘解由らが勢力を伸ばし,国家老生駒帯刀・生駒左門らとの対立が深刻化し,寛永14年に生駒帯刀は前野派の横暴を糾弾した17か条の訴状を土井利勝・藤堂高次らに提出した(生駒記)。これが生駒騒動の発端であるが,訴状を調査中の寛永16年に前野助左衛門が病死したため土井利勝らは生駒帯刀の訴状はなかったことにして帯刀を国元へ帰らせた。しかしその後石崎若狭と助左衛門の子前野次太夫らは江戸屋敷の家臣はもとより国元のものも巻き込んで徒党をくみ,藩主高俊の意向を無視したりした。このため寛永17年にこの徒党の件が幕府の評定に上り,藩主高俊は讃岐国を没収され出羽国矢島1万石へ転封され,前野派17名は切腹,生駒帯刀・生駒左門・三野四郎左衛門らは大名預けとなった。生駒家による讃岐支配は約半世紀で終わったが,この時代に讃岐における近世的体制の基礎が固められたことはいうまでもない。矢島の生駒家は明治維新まで続いた。




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「角川日本地名大辞典」
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