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井関池
【いせきいけ】


三豊郡大野原町五郷井関に柞田川をせき止め築造された溜池。堤高16m,堤長350m,貯水量45万6,000m(^3),満水面積14.4ha,受益面積500ha(袂池・千歳池と同一受益)。大野原町は,池が築かれ,新田が開墾されるまでは現在では想像もつかないほどの荒地であった。水利は特に悪く,耕す人も住む人もいない文字通りの大野原であった。この広大な土地に着目したのが,讃岐に90余の溜池を築造した生駒高俊の家臣西島八兵衛で,寛永15年当池の築造に着手したが,生駒家騒動により中止した。その後八兵衛は,工事半ばにして郷里の伊勢へ帰ってしまい,あとを引き継いだのが,大野原開拓の父といわれている近江の豪商平田与一左衛門である。彼は大野原開墾の水源地として井関池の築造に莫大な私財を投じ,短期間で完成させた。平田家は生駒家に出入りした商人で,讃岐についての知識もあったため,手代の木屋庄三郎,大坂の商人備中屋藤左衛門,三島屋又左衛門,丸亀藩主山崎家治の蔵元で大坂の松屋九郎兵衛の子半兵衛(のちに九郎兵衛を襲名)を加えて4人が連帯責任で開墾することになり,寛永20年丸亀藩へ築造工事許可を願い出た。新田3か年の作り取りを5年に延長する代わり,普請の費用を負担する条件で許可された。「井関池之由来並水掛池々之覚」は工事の様子を「四国は申すに及ばず中国よりも,讃岐に池の金持ち普請これありと聞き伝え,妻子召し連れ日用仕り候,堤は東と西より築立て真中を川水通し,この川筋1日にて築留め申す日は,前方より諸方に触れ大勢集め銭をイカキに入れ置き握り取り仕り候」と伝えている。日夜を分かたぬ突貫工事によって正保元年2月完成,堤高6間(10.8m),堤長210間(378m),池面積12町1反(12.1ha),工事費銀200貫余を要したという。しかしその後新田開墾が順調に進んだわけではなく,池は完成後半年で早くも決壊,翌正保2年3月復旧,同年7月再び大雨により決壊,慶安元年三たび決壊と,決壊,復旧を繰り返した。入植した百姓たちは,水不足に加えて虫害などの災害も重なり,動揺して逃げ出す者も出始めた。慶安2年の検地帳によると,開墾136町2反余のうち,植え付けられている田畑はわずか48町8反余という惨状であった。平田家も相次ぐ決壊で財政的にも限度に達し,正保2年に藩に援助を求める嘆願書を出し,以後承応2年まで7回にわたって窮状を訴えている。承応3年になって奉行高野瀬作左衛門が現地調査し,この年修復され,築造以来10年ぶりにようやく大野原築造繁栄の基礎が固められ貯水池として機能するようになった。以来300余年,田畑開墾は600町歩に達し,当池の貯水だけでは十分な灌漑ができず,二葉・千歳・土居池など補助池多数を築き,ほとんど水田ごとに井戸を掘って水不足を補ってきたが,豊稔池・五郷ダムが築かれて,大野原の水利は安定し,さらに昭和50年の香川用水の導入により初めて充足した時代を迎えることができるようになった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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