一円保
【いちえんのほ】

旧国名:讃岐
(中世)鎌倉期~室町期に見える保名。多度郡のうち。多度郡仲村郷・弘田郷・吉原郷にまたがる保で,現在の善通寺市の中心部分と同市吉原町の曼荼羅寺周辺の地域にあたる。一円保と記されている史料は,善通寺所蔵の徳治2年11月の日付がある一円保差図(指図)が初見であるが,善通寺・曼荼羅寺領という形で平安期からの歴史をもっている。善通寺は善通寺市善通寺町にあり,弘法大師(空海)の誕生地と伝え,空海建立とも空海先祖建立ともいわれている古刹。曼荼羅寺は善通寺市吉原町にあり,空海が唐から帰朝ののち,密教修行の道場として建てたと伝えられている寺である。平安期には両寺とも京都の東寺の末寺であり,天治年間の頃には両寺の寺務は合して善通曼荼羅寺所司によって執行され(東寺百合文書/平遺2015),本寺から派遣された別当がそれを統轄していた。曼荼羅寺領は,康平年間の頃,免田6町余,畠地10町(同前/平遺984)。善通寺領は,那珂郡と多度郡に散在しており,寛仁2年には免田4町であったが(同前/平遺481),延久4年には本免田8町8反140歩,配当米49石2斗3升4合,作畠10町4反半,料麦・料大豆あわせて10石4斗1升となっており(同前/平遺1075・1076),寺領は順調に発展していた。ところが,12世紀はじめの永久3年頃から,国衙に上る国役・在家役賦課,早田官物徴収などが厳しくなり(同前/平遺1841・2327),「有限仏聖灯油料己以闕怠」(同前/平遺2015)という状態になっている。保延4年,讃岐国守藤原経高は散在の寺領を両寺の周辺に集め一円化を行った(東寺文書/平遺3290)。久安元年12月に作成された讃岐国善通曼荼羅寺々領注進状(書陵部所蔵文書/平遺2569)によってこの一円寺領の状態をみると,中村郷にある善通寺の周辺には,仲村郷田代20町3反60歩・畠38町7反120歩,弘田郷田代6町7反・畠5町3反半が集められ,吉原郷にある曼荼羅寺周辺には,同郷田代3反120歩・畠24町1反大が集められている。両寺領をあわせると田27町3反180歩・畠68町2反260歩,合計95町6反80歩になる。また,仲村郷に9家,弘田郷に2家,吉原郷に4家,合計15家の在家がおかれた。久寿3年5月に善通・曼荼羅寺所司が留守所に提出した解状(東寺百合文書/平遺2837)に,仏寺事料物は散在寺領の時は春秋の検注を以って地子物を勤仕させていたが,一円の後は「起請田官物之内」を以って勤仕するようになったとある。これによってみると,一円寺領においては国衙が寺領と定めた地域から官物を徴収し,その一部を仏寺事料物として両寺に給することにしたのではなかろうか。寺領面積が散在時に比べて著しく増加しているのも,こうしたことに理由があるかもしれない。この寺領は久寿の頃にはふたたび散在に返されたが(同前),その後は,また,一円に復している。一円寺領の田畠の所在は注進状に条里によって示されているので,条里図の上にあらわすことができるが,それを前記の徳治2年の一円保差図と比較すると領域がほぼ一致するので,平安末期国司によって集中一円化された両寺領が,鎌倉期の一円保の前身であることがわかる。鎌倉期に入り,建仁3年6月20日に国衙の妨を停止し旧例に任せて善通寺・曼荼羅寺を東寺の末寺となすべき旨の讃岐国司庁宣が留守所宛に発せられているが(東寺文書/鎌遺1363),これは寺領としては先の一円寺領のことである。「吾妻鏡」安貞2年3月13日の条に,承久の乱後に置かれた讃岐国善通寺領地頭職を停止したことが見えるが,これもこの寺領に置かれた地頭であろう。寛喜元年5月19日,讃岐国多度郡善通・曼荼羅両寺を,国衙の濫妨を停止して永く東寺領とし,東寺法務長者権僧正親厳の門跡領掌とすべき由の官宣旨が東寺に宛てて出された(善通寺文書/鎌遺3834)。一円寺領の支配はこの時に確立したと思われる。しかし親厳は京都山科の随心院の門跡でもあったため,善通・曼荼羅両寺の本寺ならびに寺領の本所の地位は,この時以来東寺の手を離れて随心院門跡に相伝されることになった。善通寺の寺領における地位は領家的なものではなかったかと思われるが,本所随心院の寺領支配は直接的で強力であった。弘安3年10月21日に出された随心院政所下文(同前/鎌遺14150)はこの寺領を一円と呼び,寺僧真恵を一円公文職に任ずるとともに,先公文覚願が売却した名田畠をことごとく新公文に返却させ,沙汰人・百姓の所職名田畠は本所の進止であるから自由に売却することを一切禁止すると命じている。一円保の名称もほぼこの頃に定まったのではなかろうか。徳治の指図によれば,保内は「くないあじやり」「そうつ」などの寺僧領,「たところ」「そうついふくし」などの荘官名のほかは,寺家作と百姓名田からなり,名田は是宗ほか10名の名主によって耕作されている。鎌倉末期,後宇多法皇の御遺告によって善通寺本寺の地位は随心院から京都嵯峨の大覚寺に移った。それは暦応4年に光厳院の文殿の裁定でふたたび随心院に返されたが(善通寺文書/新編香川叢書),この頃になると武士の寺領侵略が激しくなり,本所随心院の支配は著しく後退した。康永2年の一円保年貢米に関する注進状(随心院文書/同前)をみると,一円保の見作田は11町5反100歩に減少しており,当年の得田はそのうち5町8反70歩ほどで,地元善通寺の寺田や荘官得分などを差し引くと,本所に送られる年貢米は5石1斗5升余(麦に換算して10石8升1合余)にすぎない。応永17年,一円保は隣接する弘田郷とともに善通寺誕生院の請所となった。誕生院は元弘の頃善通寺中興の祖といわれる宥範によって開かれ,その後善通寺の教学,経営の中心となり,在地領主としての力も蓄えてきていた。同年12月17日の第3代院主宥快の請文(善通寺文書/同前)によると請負額は毎年35貫文である。しかし応永29年正月16日,香川美作入道道貞を,年貢額40貫文で弘田郷領家職・一円保所務職・寺家別当奉行に任ずる随心院前大僧正御教書が出されており(同前),誕生院は請負代官の地位を,讃岐守護細川氏の有力被官で西讃の守護代であり,多度郡の西端天霧山に城を構えていた香川氏に奪われたものとみえる。文明16年正月23日に細川氏の奉行と思われる高松四郎左衛門が随心院雑掌宛てに出した書状(同前)によると,応仁の乱に当たって一円保は兵糧料所として守護に召し上げられていた。随心院門跡のたび重なる要請によってようやくこの年に返却されたのであるが,この間香川氏に預け置かれていたらしいから,応永29年以来の香川氏の支配力は一円保内に強く浸透していたことと思われる。随心院は誕生院を返却された寺領の請負代官に任命したらしく,「一円保御公用事 去年者依国乱雖無足候 五百疋進申候」という誕生院第9代院主宥助の明応9年12月13日付の書状が善通寺に残されているが,その後一円保の史料は絶える。おそらく戦国武将に成長していった香川氏の領地になったのであろう。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7197845 |