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石清尾八幡神社
【いわせおはちまんじんじゃ】


高松市宮脇町にある神社。旧県社。祭神は仲哀天皇・応神天皇・神功皇后。石清尾山山麓に所在する。「金毘羅参詣名所図会」によれば,延喜18年香川郡箆原荘亀尾山山頂に山城国石清水八幡宮を勧請したのが創祀で,石清水と亀尾山を合わせて石清尾と称したという。「全讃史」「讃岐国名勝図会」もほぼ同様のことを伝えている。亀尾山は一説に高塔山ともいい,現社殿の裏山にあたる。南北朝期,細川頼之は,細川清氏との白峰合戦や伊予河野氏征討に際して当社に戦勝を祈願,凱旋後社殿を造営し,4月3日に右馬頭祭を始めたという。この右馬頭祭は言語に絶するにぎやかさといわれ,当初は甲冑・弓矢を帯し,数十騎の騎馬が神前を行進したが,その後農具市に変わった(讃岐国名勝図会・金毘羅参詣名所図会)。現在でも5月3日の春市立祭として続けられ,植木などが並べられにぎわっている。また応安4年8月付で細川頼之によって下されたものとする禁制(石清尾八幡宮文書/新編香川叢書)が伝来するなど,守護細川氏の崇敬も篤いものがあった。天正15年生駒親正が讃岐に入封すると,高松城構築に際して当社を城の鎮守と定め,社殿を改築し,社領も寄進したと伝える。寛永17年生駒高俊改易時の讃岐国中寺社領高書上写には「高八石 石清尾領」と見えるが(覚城院文書/同前),「寺社記」では慶長年間に生駒一正から20石8斗余が寄進されたと伝える(新編香川叢書)。次の藩主に松平頼重が入封すると,その神社政策として当社を優遇し,寛永21年には社殿を山頂から現在地に移転させ,社領202石余を寄進した。この際社殿は鎌倉鶴岡八幡宮に模し,祭礼は石清水八幡宮に倣ったという(讃岐国名勝図会)。別当として阿弥陀院(五智院)が置かれ,ほかに供僧6坊・禰宜8人・女巫4人・伶人9人がいた(全讃史)。社領202石6斗余は阿弥陀院と社司中川主税に29石ずつ,御供領として5石,下禰宜4人に16石,楽人9人に41石余,神子4人に6石余,神楽役6人に18石余,神馬役4人に12石余,供僧(円満寺・観音寺・浄光院・西願寺・覚王寺・福寿院)に計31石などが分配された(寺社記/新編香川叢書)。宝永2年3代藩主頼豊も社殿を造営するなど,高松城下の産土神として隆盛していった(金毘羅参詣名所図会)。近世の社頭には本殿・幣殿・拝殿・神楽殿・神明宮・石清水宮・多宝塔・薬師堂・神馬舎・随神門・回廊・御供所・反橋・石の鳥居・中の鳥居・雨師風伯社・放生川・行宮・道祖神社・阿弥陀堂・一の鳥居のほか多数の末社・石灯籠があった(同前)。明治維新で阿弥陀院のほか供僧もすべて廃し,明治5年県社に列格。12月15日の庭燎祭は俗に「みかんやき」と称し,庭燎でミカンを焼き疫病除けとして食べるという高松市近辺の神社に多い風習である。なお現在高松市随願寺にある大般若経は,奥書に応永8年の銘をもち,元来当社の経典で「讃岐国名勝図会」にも記されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7197887