100辞書・辞典一括検索

JLogos

13

大水上神社
【おおみなかみじんじゃ】


三豊郡高瀬町羽方にある神社。延喜式内社。旧県社。祭神は大山積命・保牟多別命・宗像大神。古くは二宮と呼ばれ,現在でも一般的には「二宮さん」「二宮八幡」の名称で知られる。創祀は未詳だが,当社は財田川支流の宮川の水源近くの淵に位置することから,水神を祀っていたと考えられる。現在でも本殿裏の竜王淵には雨乞説話が残り,竜王淵を見下ろす位置にある陰陽石の巨岩上には境内社の千五百皇子社が祀られている。祭神の大山積命は神社では大水上大明神と考えており,社蔵の「二宮記録」では二宮三社として,大水上大明神・八幡大神・三島竜神の名が見える(香川叢書)。また宮川流域では袈裟襷文銅鐸・広形銅剣など弥生時代の遺物のほか古墳も多く発見されており,有力豪族の存在が知られる。当社に氏族伝承はないが,「二宮記録」は讃岐国綾氏の祖武殻王の崇敬が篤く,三野(みの)・豊田両郡の社領として給されたと伝える。また讃岐国出身の空海は入唐の際,当社に参詣したという。貞観7年10月9日「大水上神」として正五位下,元慶元年3月4日には正五位上に叙されている(三代実録)。しかし,これ以前の貞観17年5月27日に「大水上天神」がすでに正五位上に叙されており(同前),この点については検討を要す。「延喜式」神名帳三野郡条に「大水上神社」と見え,三野郡唯一の式内社だった。当社に,いつ八幡神が祀られたかは不明だが,元暦元年には源平両氏から戦勝祈願のために武具や願文が奉納されたといわれる(二宮記録)。この時期は讃岐国内の勢力が平氏から源氏へ移る過渡期であり,当社が武将の崇敬を集めていたことが推測できる。建久9年2月「散位秦支守法,摂津守大平忠」から社領200石が寄進されたが,その内訳は修理領,御供領,灯明領などであり,また建長年間に「番匠之手間」のべ2,000日と,555貫の費用を要して社殿の修復が行われ,建長6年8月上棟されたという(二宮記録)。当地は鳥羽上皇の中宮待賢門院(藤原璋子)の御願寺であった法金剛院領大水上荘で,持明院統の荘園として伝領された。そのため現在も拝殿前に,「康永四〈乙酉〉二月日」と北朝方の年号が刻まれた伝藤原良基奉納の石灯籠がある。この石灯籠は角礫凝灰岩製で,県文化財となっている。なお,下って天文2年11月8日の法金剛院領目録案にも「讃岐国 大水上社」と見え,その社領「田百一町二段七一歩,畠百五十一町百六十歩」が法金剛院領として書き上げられている(筑前国怡土荘史料/九州荘園史料叢書4)が,もちろん,この頃には支配権の実質は失われていたであろう。当社は讃岐国二宮で,先の建長6年の修理棟札に「二宮大水上大明神」と見えるほか(二宮記録),「讃岐国官社考証」には「二ノ宮大水上大明神」在銘の永徳3年の鰐口が紹介されている。応永34年8月大風のため社殿が大破したが,正長元年讃岐一国の人別銭を充てて造営。永享12年には讃岐国中の用脚を造営費用としたという(二宮記録)。しかし,「人別銭」や「国中之要脚」については,もちろん確かなことではない。天正年間長宗我部元親の讃岐侵攻により社殿は大破したが,丸亀藩主京極氏が社領30石を寄進し,復興したという。別当寺は建久年間には清澄寺・神宮寺であったとされるが(二宮記録),近世の「全讃史」には「祠令は延命院にして,竜華寺その祭を主どる」とある。古義真言宗の竜華寺は羽方村にあり,延命院(現勝楽寺,豊中町)の末寺であった(本末帳集成)。明治5年郷社に列し,昭和8年県社に昇格。高瀬町羽方・佐又,山本町神田の氏神だが,昭和34年境内に豊葉大神も祀り,県下から多数の煙草耕作者が参詣するようになった。渓流を挟んで平安期の窯跡が2基あり,二ノ宮窯跡として国史跡。境内は1万6,000坪あり,社殿は幽境の中に壮大さを誇る。例祭は10月5日。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7198061