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賀茂神社
【かもじんじゃ】


三豊郡仁尾町仁尾にある神社。旧県社。祭神は賀茂別雷神。仁尾の明神とも呼ばれる。社伝によれば,応徳元年に山城国賀茂別雷神社(上賀茂神社)より原斎木朝臣吉高が,仁尾浦の大津多(蔦)島に勧請したのに始まる。「百錬抄」寛治4年7月13日条に,堀河天皇が山城国賀茂上・下社に「被奉不輸田六百余町,為御供田」したと見え,その時の御厨の1所が讃岐国内海であったといわれる(賀茂社古代庄園御厨)。この内海が,当社の旧鎮座地大・小蔦島と伝えられている。仁尾町内の常徳寺所蔵文書中,観応元年12月17日付細川顕氏禁制には「鴨御祖社領讃岐国内海津多島供祭所」とある(新編香川叢書)。これによれば,この当時,鴨御祖社(山城賀茂下社)の供祭所が蔦島に設定されていた。こののち,延文3年9月日に出された詫間荘領家某免田寄進状は,「詫間御庄仁尾浦 鴨大明神」に対して「当社依為無縁」り御恒供料を永代に寄進したものである(賀茂神社文書/同前)。この鴨大明神は明らかに当社のことであり,南北朝期には確かに仁尾浦の在地に,鴨大明神が成立していたことがわかる。ちなみに当社所蔵文書は,弘安元年閏10月12日付藤原資治田畠放券以下,中世文書が29通残されている。このうち鎌倉・南北朝期のものは詫間荘仁尾村に関するもので,南北朝・室町期のものは当社および仁尾浦神人に関するものである。仁尾浦の漁民が,南北朝期に至って,それ以前の山城賀茂社御厨としての伝統と権威を利用しつつ,賀茂社の分霊を勧請創祀して互いの結束を強固なものにしていったものと考えられる。永和4年11月日には橘某が平池所在の免田1反半を充行い,これを,当社神官と思われる原新兵衛に知行せしめている。一方応永22年10月22日,管領・讃岐守護細川満元は「仁尾浦供祭人中」に対する社家(山城賀茂社)の課役を停止し,細川氏に対する海上諸役を勤めるよう命じており(細川頼之等書下写/賀茂神社文書),同浦神人集団が徐々に山城賀茂社支配から離れ,独自に海上諸活動を行いはじめたことがうかがわれる。この時期は,同時に,仁尾浦そのものが守護細川氏の直領化していく時期でもあった。細川氏と当社の結びつきは強かったとみえ,当社祭礼の中心をなす「長床の儀」は,山城賀茂社の御厨としての遺風を伝えるとともに,細川氏よりの使者を迎え,歓待した儀礼の名残であると伝えられている。嘉吉元年と同2年に細川氏に提出した神人等言上状には,仁尾浦神人が嘉吉の乱に際してたびたび兵船を供給し,また祈祷を勤めたことが記されている。そして,当時の代官香西氏による度重なる兵船催促などに反抗して,500~600戸あまりの神人の大半が逃散したとも記し,神人集団の強固な団結の姿を物語っている(同前)。文明13年4月日付沙門宥真勧進状は,当社に塔婆1基を建立することを発願したものだが,文中に「抑当浦氏社鴨大明神者,影向年旧」とあり,当社が港町として栄えた仁尾の氏神として,住民から絶大な信仰を集めていたことを示している(覚城院文書/同前)。なお本願宥真は仁尾町の覚城院(真言宗)にかかわる僧で,覚城院や常徳寺にも当社関係の文書が多数残されている。両寺は,中世から近世にかけて当社の別当寺となっていた時期もあるらしい。嘉慶元年から書写されはじめた大般若経600巻が当社に奉納されたのも,そのためであった(仁尾町史)。当社はもと大蔦島にあったと伝え,今も同島に賀茂元宮がある。これが,いつごろ現在地に移ったかは明らかでないが,前記のごとく,南北朝期には仁尾浦の在地に鴨大明神の存在が確認される。また,下って,文明12年10月日付新兵衛良継・左藤兵衛屋敷相伝状に「御ミやのまへ」と見え,さらに同18年10月5日付彦三郎屋敷売券に「鴨社宮之前 惣官殿之家之東也」とあり(ともに賀茂神社文書),惣官(当社神官原氏)の屋敷も,その宮前にあって仁尾浦神人の中核に位置していたものと推測される。江戸期に入って寛永10年3月17日鴨大明神祠官仁保(尾)大夫詑状には,祭礼が供祭人衆によって執行されていたこと,竹木・植木等は宮坊が管理していたことが見え,その宛て名は「鴨大明神様〈御氏子衆 御年寄衆 覚城院様〉」となっている(覚城院文書)。このころには,神官仁尾大夫(原氏)も別当覚城院の支配を受けていたと思われる。寛永19年2月日付讃岐国中寺社領高書上写に「仁尾覚城院」1石,「仁尾宮領」1石3斗とあり,仁尾宮が当社のことであろう(同前)。社蔵棟札によって慶長13年の本殿再興以下たびたびの社殿再興が知られるが,それ以前にも正平5年・応永2年・文明13年・文禄5年に社殿改築があったといわれる(仁尾町史)。江戸期に生駒・山崎・京極各氏の崇敬を得たと伝える。明治期に入って郷社となり,昭和15年県社に列した。秋の例祭で行われる長床の神事は,山城賀茂社の御厨であった時の遺風を伝えるものとして県無形民俗文化財。本殿正面にそびえる高さ7mの一対の注連石は町文化財。




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「角川日本地名大辞典」
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