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神野神社
【かんのじんじゃ】


仲多度郡満濃町神野にある神社。旧村社。祭神は天穂日命・嵯峨天皇・別雷命・罔象水命。満(万)濃池北側の山上にある。江戸期までは池の宮と称する社殿に,万濃池神・神野神・加茂神が相殿に祀られていた。万濃池神は,「三代実録」元慶5年11月14日条で従五位下を授かると見える。一方神野神社は「延喜式」神名帳那珂郡条に見える神野神社のこととされるが,丸亀市郡家町にも同名の神野神社があり,今のところ決定しがたい。社伝によれば,神野神社は伊予国の御村別の子孫が当地を開拓した際,旧地伊予国神野郡(新居郡の旧名)にちなんでこの地を神野と名づけ,当社を祀ったのに始まるという。一説には神櫛王の子孫が天穂日命を祀ったとも,また弘仁12年に空海が満(万)濃池を築造する以前から池の源流金倉川を鎮めるために加茂別雷神を祀ったともいわれる。いずれにせよ江戸期以前は,池の宮・神野神社・加茂神社・神野寺が一体となって,満濃池に臨んでいたと考えられる。「讃岐国名勝図会」に収載する寛正2年銘銅製釣灯籠の銘文によれば,神野神社は大同3年2月に創建され,加茂神社も同年9月に創建された。また神野寺という寺院があり,これは空海が満濃池の築造にあたった時,その座堂として造られたのが始まりで,その時の本願主は神櫛命子孫の矢原式部左衛門正文であった。堂はその後大治5年7月3日に,空忍和尚によって神野寺となり,その時の本願は矢原庄司義宗であった。神野神社は正治元年2月12日に,矢原正信を本願として社殿を再建。応安4年8月5日には「金光院代法将坊 神野寺実道和尚」を導師として,正殿造営後の遷宮をしている。さらに明徳4年2月3日にも矢原正信・向井貞次・惣領庄司正時・山川元忠・長尾二郎を願主として,神野寺23世信専大和尚が再建したとある。この銘文によれば神野神社・神野寺・矢原氏の密接な関係をうかがうことができる。なお神野寺は,天正12年に長宗我部氏が同寺を陣に定めたことによって荒廃し,当時の住職空照和尚が遷化して以後退転したとされる(讃岐国名勝図会)。中世までは同寺が池の宮(神野神社を含む)の別当寺であったと推定されるが,江戸期からは金刀比羅宮(琴平町)別当金光院が別当を兼ねた。池の宮の寛文7年・貞享元年の遷宮の時も金光院が導師を勤めている(讃岐国名勝図会)。寛永5年,生駒高俊の命により満濃池再築工事を行った西島八兵衛は,まず池の宮を再建した。その後も,万治2年・宝暦4年・文化2年・文政3年等,池普請のたびに社殿修築がなされていた。昭和28年にそれまで池の堤防上にあった当社を,池北側に連なる山上の現在地に遷座した。境内には,明治3年の池改修で功績のあった高松藩執政松崎渋右衛門,榎井村庄屋長谷川佐太郎を祀る松崎神社がある。社前には文明2年の銘をもつ鳥居がある。




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「角川日本地名大辞典」
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