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櫛梨神社
【くしなしじんじゃ】


仲多度郡琴平町下櫛梨船磐にある神社。延喜式内社。旧郷社。祭神は神櫛皇子命。はじめは櫛梨全郷の産土神であったが,のちに大歳神社が上櫛梨の産土神となってからは,下櫛梨のみの産土神となった。如意山塊の櫛梨山南麓にあるが,社伝ではもと山頂に社殿があったが火災のためいつのころか現在地に移されたという。如意山塊周辺には古墳が多いが,金倉川の東としては当社近辺が数少ない原始・古代の遺跡の集中する地域といえる。社伝によれば,景行天皇の子神櫛王が南海の大魚誅討のため土佐から讃岐に入った折,船を櫛梨山麓にとどめた。王は大魚を討ったのち讃岐国造を命ぜられたが,王の没後この地の住民が廟を建てて皇宮大明神として祀ったのが当社であるという。「讃岐国名勝図会」には,国造神櫛王がこの地の国神である大麻神(大国命)と櫛無神(大歳神)とを祀ったのが創祀とある。一説に,神櫛王は讃岐公・酒部公の祖で,神名の櫛は酒の意であるという。「延喜式」神名帳那珂郡条に当社の名が見えるが,古代の沿革は未詳。寛文9年の「御領分中宮由来」には,祭神は天津児屋根命とし,神体は金仏の十一面観音で弘法大師が当社を建立したとしている(新編香川叢書)。仏教との関係は古く,善通寺文書中の観応3年6月25日付権大僧都宥範譲状に,宥範が宥源に譲った所領のうちに「櫛無社地頭職事」とある。すなわち,当社は建武3年2月15日に「将軍家並岩野御下知」によって宥範に充行われたものであった(新編香川叢書)。その後応永21年4月21日付権律師宥快譲状にも「一所 院領櫛無地頭職事」とあり,当社は南北朝期初頭以降誕生院の支配下にあったことがわかる(同前)。天正の兵乱で社殿が焼失したが,寛文9年の「御領分中宮由来」によれば元和3年に生駒高俊再建,寛文5年には氏子によって改築された(新編香川叢書)。明治期には郷社に列した。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7198397