香西郡
【こうさいぐん】

旧国名:讃岐
(中世)室町期~戦国期に見える郡名。室町初期の応永19年に書写された北野社一切経の奥書(大日料7‐16)に「讃州香西郡」と見えるのが初見。香西郡の前身は平安後期に「和名抄」の香川郡が東・西両条に分割されて成立した香西条であり,ほぼ南北朝期に呼称が変化したものと推定され,その郡域は「和名抄」に香川郡所管として挙げられている12郷のうち,西部の坂田・成相・河辺・中間(なかつま)・笠居・飯田の6郷の地であったとみられる。以下では,香西条とよばれていた時期を含めて中世における香西郡の概要を述べる。前記の香西郡に属したとみられる6郷のうち,笠居・飯田は鎌倉期に,中間は南北朝期に,坂田は室町期にそれぞれ存在が確認される。笠居郷は建長5年2月18日の伊勢祭主大中臣隆世下文(公文抄/鎌遺7522)に初見するが,同2年11月日の前関白九条道家惣処分状(九条家文書/同前7250)に「讃岐国笠居御厨〈大神宮領〉」と見えているように,伊勢の皇太神宮(内宮)の御厨となっていた。飯田郷は笠居御厨と同じく道家惣処分状に見え,当時は道家が建立した東福寺内の観音堂に寄進されていた。のち,嘉元4年6月12日の昭慶門院御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)には公領の郷の1つとして見えている。中間郷は応安2年4月14日の後光厳天皇綸旨(水無瀬神宮文書/大日料6‐30)により,三木郡氷上郷とともに後鳥羽院御影堂に寄進されたことが知られる。坂田郷は「御前落居記録」永享3年9月6日条に「清水坂神護寺領讃岐国坂田郷」と見え,京都清水坂の神護寺領となっていた。同記録および「満済准后日記」同年11月28日条の記事によれば,坂田郷は讃岐守護細川氏の知行地で,被官の讃岐国人香西氏が応永年間以来,神護寺の所務代官職を請け負っていたことが知られる。中世の香西郡で存在が確認される荘園には,前出の道家惣処分状に見える藻壁門院法華堂領坂田荘がある。同荘は道家の娘で後堀河天皇の中宮となった竴子(藻壁門院)の菩提を弔うために建立された法華堂に寄進されたものである。このほか,保・勅旨田としては,前出の昭慶門院御領目録案に見える円座保・坂田勅旨がある。前者は「吉続記」文永8年正月11日条および同9年正月15日の後嵯峨院御処分帳案(皇室制度史料太上天皇一)などの記事から,讃岐国の特産物である円座を調進するために設けられた便補保で,当時は鎌倉将軍宗尊親王の母平棟子の所領となっていたことが知られる。後者は永和3年11月日の寛尊法親王令旨(狩野文書/東大史料影写本)によれば,南北朝期には大覚寺門跡領となっており,同寺子院の覚勝院により知行されていたことが知られる。戦国期の「親長卿記」文明4年11月15日条などに覚勝院の知行地として見える讃岐国坂田荘は,この勅旨田を指すものであろう。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7198463 |