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極が谷遺跡
【ごくがだにいせき】


弥生中・後期の祭祀遺跡。小豆(しようず)郡内海(うちのみ)町安田極ケ谷に所在。銅鐸・銅剣が一緒に出土したことで知られる。安田の集落を抜け,安田川をさかのぼると粟地ダムに行き着く。このダムから東に小豆島八十八か所第14番霊場清滝に通じる山道を600m登ると三五郎池に出るが,当遺跡は池の西隅上方の林の中にある。標高は100m。遺跡北側は霊場清滝がある深山で,さらに奥には島内最高峰,標高816.6mの星ケ城山がそびえる。東側も,小豆(しようど)島東岸までの間,険しい山々が続く。西側は,安田川の対岸40mに粟地遺跡,その北側山手に釘が谷遺跡が分布するが,その西は山々で閉ざされている。粟地遺跡と釘が谷遺跡は当遺跡と同時期の集落遺跡と推定される。このように北・東・西は山々で閉ざされていたが,南側は安田川によって開け,安田の町並みの先に内海湾を望む。安田川下流には弥生中期の諸口遺跡がある。当遺跡で,銅鐸は昭和4年,藤原金一が巨石の根本から発見した。総高31.3cm,鈕の高さ8cm,肩部の長径13cm・短径6.5cm,裾厚2.5mm,重さ1.5kg。扁平鈕式四区袈裟襷文鐸である。鋳上がり不良,摩耗,破損のため文様は不鮮明である。鈕外縁には鋸歯文帯,菱環には綾杉文を中に連続渦文が外周し,内縁には四頭渦文が施される。内面凸帯1条,袈裟襷文を埋める斜格子文の目は粗い。破損は採取時のものと推定される。銅剣は2点出土。ともに平形銅剣であり,1点は昭和7年藤原金一が銅鐸出土地の西方,約2mの自然石間の土中から採取したという。鋒先を欠損し,全長31cm。関部から一辺は約7cm,他辺は10cmを残して,それから鋒先までの間は刃部を欠損,中央に径20cmの鎬を残すのみである。残存する刃部は幅2mmと他より厚く,刃は付けない。幅は基部下端で4.2cm,上部は現存最大部で5.1cm。関部両面に幅約2mmの突線が鎬に直交し,7mmの間隔で片面4条,両面で8条鋳出されている。もう1点の銅剣は昭和45年の県の遺跡確認調査で出土。長さ7cm,前の銅剣と同型式の関部をもつ。ただし,突線は片面2条,両面4条と前と異なっている。この調査では弥生中・後期のミニチュア土器を含む土器片が伴出している。青銅祭器を出土した小豆島唯一の遺跡として,また県下では他に善通寺市我拝師山遺跡,三豊郡高瀬町羽方遺跡に例があるだけの銅鐸,銅剣の伴出遺跡として貴重である。さらに周辺に同時期の集落が分布すること,青銅祭器の出土状況がある程度わかること,ミニチュア土器を含む弥生式土器が伴出することなどから青銅祭器の時期,祭式が推測できる遺跡である。なお,対岸に位置する集落は,沿岸平地部を遠く離れ山間部の谷間にある。そこからの眺望は良いが,沿岸部からの見通しは悪く,高地性集落の一種と考えられるが,隠れ里の色彩が濃い。高地性集落を生み出した政治的緊張関係のもとで,部族の祭器を守護した集団の集落であろうか。文献は「新編香川叢書考古編」(県教育委員会編),「讃岐青銅器図録」(瀬戸内海歴史民俗資料館編)。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7198511