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金刀比羅宮
【ことひらぐう】


仲多度郡琴平町琴平山にある神社。旧国幣中社。大物主神を主祭神とし,保元の乱後讃岐に流された崇徳上皇を相殿に祀る。江戸期は金毘羅大権現と称す。讃岐のこんぴらさんとして,全国からの参詣者が絶えない。とくに幕末には,伊勢神宮と並ぶにぎわいをみせ,「金毘羅船ふね追手に帆かけて……四国は讃州那珂の郡象頭山金毘羅大権現」の歌が全国的に大流行した。象頭山は大麻山の南麓で,琴平山の別称。創祀は未詳。社伝では昔象頭山の下まで海が入り込んでいたころ,琴平の地は瀬戸内海航路の要所であった。大物主神は,この地を四国・中国・九州経営の本拠地に定め,のちにその旧跡地とした人々が大神を祀ったのが当社という。崇徳上皇は讃岐配流後の長寛元年に当社に参籠した所縁があり,没後の永万元年に奉斎したという。同じく社伝によれば,長保3年藤原実秋が一条天皇の勅命により社殿を修築し,寛元元年には後嵯峨天皇の勅で祭儀を修したという。しかし現在のところ当社の存在を示す確実な史料は,戦国期末元亀4年銘の所蔵棟札がもっとも古い。金毘羅は薬師十二神将の1つ,般若守護十六善神の1つで,仏法の守護神である。一説によれば,同神は鰐魚を神格化したものともいい,当社が海の神として信仰されていた理由も,ここにあるのかもしれない。元亀4年の棟札には,表に「上棟象頭山松尾寺金毘羅王赤如神御宝殿 当寺別当金光院権少僧都宥雅造営焉,于時元亀四癸酉十一月廿七日記之」,裏には「金毘羅堂建立本尊鎮座法楽庭儀曼荼羅供師高野山金剛三昧院権大僧都法印良昌勤之」とある。これによって,金毘羅堂がこの時松尾寺内の1社として造営されたことが知られる。松尾寺は,琴平町川西にある高野山真言宗の寺。同寺の開創にも未詳な点が多いが,中世まではこの象頭山麓に真言宗や修験道の寺院が多く,同寺もその中の1つだったのであろう。同寺以外に,近世初頭には廃絶してしまった称名院(称名寺とも)・滝寺などがあり,とくに滝寺にあった十一面観音菩薩像は平安期の作で,江戸期に松尾寺に移された(現在当社蔵,国重文)。天正12年,長宗我部元親は松尾寺に仁王門を建立。この門は,のちに松平頼重が別の仁王門を寄進してからは,金毘羅社の二天門(現在の賢木門)となっている。元親による四国支配は天正13年の数か月で終わり,豊臣秀吉支配下の讃岐には仙石秀久が封ぜられた。秀久は同年8月10日に「小松内 松王寺(松尾寺)」宛に制札を発給。同年10月19日には金毘羅神に「寺中手作」分から10石を寄進した。翌14年2月13日には30石を金毘羅に対して寄進し,同年8月24日には改めて「六条之内」をもって「金ひら下之坊」宛寄進している(金刀比羅宮文書/新編香川叢書)。天正15年に生駒親正が入部したが,その子一正は,父にかわって,天正16年7月18日金光院に小松江内(榎井)村年貢25石を寄進した(同前)。金光院は元亀元年の棟札で松尾寺別当とされているが,このころには同寺内ながら金毘羅の別当となっていたらしい。天正17年2月21日付生駒一正寄進状でも,「御こんひら」に対して「中之郡之内於小松村」内の5石を寄進した際に,宛て名は金光院となっている。戦国期末ごろに姿を現した当社は,わずかのうちに発展して,武士をはじめ庶民からも絶大な信仰を集めた。慶長6年3月5日付生駒一正判物によれば,「於金比羅,新町之他国より罷越候者之儀,諸公事緩置候之間,住宅仕候様」申し付けたという。生駒氏は,当社参詣者の増加を見込んで,他国者のこの地への定住を促進しようとしている。一正の後正俊は,元和4年3月10日に「先年神領」73石5斗に合わせてさらに73石5斗を寄進,合計147石を「金毘羅大権現神領」とし,「金光院代々院主之沙汰」とした(以上,金刀比羅宮文書)。生駒氏の後,寛永19年に高松藩主となった松平頼重も,生駒氏以来の社領を安堵するとともに,正保2年5月18日の金光院願書を受けて,慶安4年に330石を朱印領とした。宝暦3年12月22日には摂政一条道香家御教書を受けて,当社は「日本一社金毘羅大権現」の称号を賜ると同時に勅願所となった(金刀比羅宮文書)。江戸期には山岳信仰の側面も強く,安藤広重描く東海道五十三次沼津に天狗面を背負った金毘羅道者の姿が見える。現在も奉納された多数の天狗面が残されている。全国的な金毘羅信仰の高まりとともに,各地で贋開帳を行う修験者も多く出て,別当金光院は対策に苦慮している。すでに慶長年間には形成されつつあった門前町も発展し,元禄年間に描かれた狩野清信の「金毘羅祭礼図屏風」では,旅宿や芝居小屋,参詣客を対象とする諸施設が見える。芝居小屋金毘羅大芝居金丸座は,現存するわが国最古の劇場で,天保6年に建造された(国重文)。上方・江戸の一流歌舞伎役者がたびたび出演し,また千両富くじの開札場としてもにぎわった。四国最大の行楽地となった当社には,四国および全国の参詣者が「こんぴら道」(金毘羅五街道)を通って集まってくる。上方あるいは岡山の下津井からの参詣客は丸亀に上陸し,中府から榎井の丸亀街道を通った。「金毘羅参詣名所図会」(弘化3年刊)は丸亀を「当国第一の湊」と記す。多度津からの多度津街道は,西方からの参詣客が利用し,丸亀に次いでにぎわった。伊予街道は,伊予方面から三豊郡を経て牛屋口(御使者口)から当社に至る道で,伊予・土佐の人々が利用した。阿波街道は,徳島から吉野川をさかのぼり,讃岐山脈を越えて買田あるいは吉野に出る道であった。また高松街道は,高松城下から土器川(祓川ともいう)を渡って当社に通じている。こうした街道や海辺聖地のところどころには,参詣者用の常夜灯が建てられていた。当社内北神苑にたつ高さ27.6mの高灯籠は,瀬戸内海航行の標的でもあった。寛文年間に北前船航路が開かれると,全国各地で活躍した塩飽(しわく)諸島の水夫たちが,金毘羅大権現の霊験を宣伝したという。幕末から明治にかけて全国に流布した金毘羅参詣絵図や道中記,および金毘羅道者たちの活躍もあいまって,金毘羅信仰は爆発的な流行を見せながら明治期に至る。明治元年に,神仏分離によって別当金光院を廃し,社名も琴平社―金毘羅大権現―琴平神社―金刀比羅宮とたびたび改名。明治4年の太政官通達の誤りで一時事比羅神社となるが,同22年には金刀比羅宮に戻り今日に至る。明治4年国幣小社となり,同18年国幣中社に列した。明治6年と同12年に当社が主催した明治勧業博覧会は,時勢とも合って大成功をおさめた。現在の本宮は明治11年の建築。なお神仏分離によって金光院は廃絶したが,松尾寺の名はそれまでの塔頭の1つ普門院に受け継がれ,普門院松尾寺として独立した。当社は明治6年ごろから金刀比羅本宮崇敬講社を設立して,参詣者への加入をすすめ,同20年ごろには講社員300万人といわれるまでに発展した。戦後昭和41年に金刀比羅本教を発足し,全国の金比羅講を積極的に組織化している。大祭は10月9・10・11日で,一般に「お頭人様」と称され,深夜の神輿行列は1kmにもおよぶ盛大なもの。現存する頭人名簿は慶長8年からあり,「御八講帳」とも呼ばれた。これは,同祭がもともと法華八講として発足したためとみられる。大祭のほか,4月10日の桜花祭(大和舞を奉納),4月15日のお田植祭(田舞・讃岐風俗舞を奉納),11月10日の紅葉祭,正月5~7日の忌籠神事がある。また大祭にともなう潮川神事も特殊なもの。これらの祭りに奉納される雅楽・舞曲は,数十曲におよぶ。江戸期以来伝承されていた蹴鞠は,明治期より廃絶していたが,昭和7年に再興された(県無形民俗文化財)。社宝は数多いが,もと金光院の金堂であった旭社社殿,表書院・奥書院などの建造物,紙本著色なよ竹物語絵巻,紙本墨画瀑布及山水図(円山応挙筆)などの絵画類,旧滝寺蔵といわれる木造十一面観音立像,初代長光銘太刀,伏見天皇宸翰御歌集などが国重文。また象頭山は国の名勝および天然記念物に指定されている。この他県指定の文化財も数多い。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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