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塩飽町
【しわくまち】


旧国名:讃岐

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は丸亀城下の1町。丸亀平野の北部に位置し,丸亀城の北にあたる。南北に細長い町で,「西讃府志」には「南条町ヨリ東ニ入リ富屋町ニ至ル,堀側町ト号ク,町長サ四十六間二尺四寸,堀側ヨリ北ニ折レテ横町ニ至ル,本町ト号ク長百十二間五尺八寸,本町ノ中ヨリ西ニ折レテ南条町ニ通フ,本照寺小路ト云,長十八間,同ク東ニ折レテ富屋ニ出ル,十軒家ト呼リ,長二十四間四尺」とあり,南北の本町を中心に,東西に堀側町・本照寺小路・十軒家の通りがあった。地名の由来は,生駒氏が朝鮮出兵に従った塩飽島の人々を移住させたことから起こったという(丸亀市史)。城下で最も早く成立した町の1つで,万治年間の城下図によれば,生駒氏時代からの町とされる古町と記され,郭外城下の南西部に位置し,南は外堀を挟んで一番丁と対面する。城下の大年寄の下で町年寄が町政を担当した。大年寄も当町から多く出た。棒役37本半。「西讃府志」では,戸数141・人口467(男223・女214,ママ),修験は万治元年竜野より当地に移された不動寺。富屋町・横町と接する商業地として発展した。明治11年には丸亀町の1町となり,同18年まで西組に所属。同23年市制町村制施行により丸亀町の1町となり,同32年市制実施にともなって丸亀市塩飽町となる。明治4年の町の広さは4,117坪余。同21年の戸数111・人口444(うち旧士族34),職業別人口では商業168・工業42・雑業234(丸亀市史)。昭和25年,外堀を挟んで南に隣接する旧軍用地の一部を編入,同地は繁華街として発展したが,同57年大手町1~3丁目となる。昭和56年城西町の一部を編入。第2次大戦後,外堀が埋め立てられ南側が地続きとなり,昭和33年埋立地は国道11号(現主要地方道高松丸亀線)となった。また,同40年代に西側の南条町と接する部分が削られ駅前に至る道路が貫通した。世帯数・人口は昭和27年120・516(男251・女265),同55年52・138(男59・女79)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7198827