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善通寺
【ぜんつうじ】


善通寺市善通寺町にある寺。真言宗善通寺派総本山。五岳山屏風浦誕生院と号す。本尊は薬師如来。四国霊場八十八か所第75番札所。寺の背後にそびえる香色山・筆の山・我拝師山・中山・火上山の5峰が山号の由来。「弘法大師御伝」(続群8下)などに真言宗開祖空海(弘法大師)は讃岐国多度郡屏風浦の人と見え,当寺がその生誕地と伝える。このため紀伊国の高野山金剛峰寺,京都の教王護国寺(東寺)とともに弘法大師の三大霊場といわれる。現境内の東側を東院あるいは伽藍と称し,金堂・五重塔・常行堂・五社明神・善女竜王社などが立ち並ぶ。この方2町の土塁に囲まれた一画が創建以来の寺域。西側は西院または誕生院と呼ばれ御影堂・見真大師堂(親鸞上人堂)・供養堂・奥殿・宸殿・宝物殿・客殿・事務所などが並ぶ。創建には諸説があり,「多度郡屏風浦善通寺之記」(江戸中期成立)では大同2年に唐から帰朝した空海が恩師恵果の居した青竜寺を模して同年12月に起工し,弘仁4年6月に金堂・大塔・講堂など15宇を完成,父の法名をとり寺号としたとする(香川叢書)。これに対し,承元3年8月日付讃岐国司庁宣(善通寺文書/新編香川叢書)などの佐伯善通創建説,延久4年1月26日付讃岐国善通寺所司等解(平遺1071),「弘法大師御伝」(続群8下)などの佐伯氏先祖建立・空海修造説がある。奈良期以前に建立された寺院跡が想像以上に全国的に多く存在し,佐伯氏が領地内に早くから氏寺を建立したと考えるのは不自然ではないこと(佐和隆研:空海の軌跡),境内より奈良前期の瓦が出土していることから当寺は奈良期に建立された空海の先祖佐伯氏の氏寺であると推定される(善通寺市史・新編香川叢書)。「高野大師御広伝」(続群8下)によれば空海は当寺修造の後に額を書したといい,また当寺と曼荼羅寺(善通寺市吉原町)の白檀の薬師如来は空海が入唐の際に刻した仏像という。それから約200年後,長保2年の東寺宝蔵焼亡日記の北宝蔵納置焼失物等に「諸国末寺公験并庄庄公験等……讃岐国善通寺公験」と見え,京都の東寺の末寺となっていた(東寺百合文書/平遺404)。さらに寛仁2年5月の善通寺司解案に「本寺別院」とあり(東寺文書4/大日古),末寺の中でも重要な位置を占め,東寺との関係は密接であったと思われる。なお,同解案から不輸租田4町余を有し,ここから上る地子が20石であったことがわかる。また讃岐国内28か寺の1つとして国の定めた公役を勤仕していたといい,当寺は半ば官寺化していた。この公役は本寺である東寺の勢によって免除されたが,不輸租田の獲得も東寺の助力によるのであろう(善通寺市史)。天喜4年12月の田畠地子支配状案によれば,春秋大門会祭,毎月8日の御仏供,大師御忌日,修正会,御八講(法華八講),2・8月の三箇日夜不断念仏,西方会などの行事,堂宇の修復が行われ,経費の地子は計48石6斗と増加。おそらく免田内の荒地の開拓などに起因すると思われる(東寺百合文書/平遺824)。この頃,東寺は全国の寺領荘園・末寺の再編成を推進しはじめる。延久4年当寺所司らは去年の大風で塔と常行堂が転倒したが,本寺から派遣された別当延誉の不法のために再建もままならず,大師御忌日をはじめとする諸仏にも闕怠が生じてきたとして,東寺長者を兼ねていた仁和寺の政所に別当の解任を願い出た(東寺百合文書/平遺1071)。これに対して東寺は国守に触れて裁定してもらうように命じているが(同前),応徳元年11月には,本の如く別当の所勘に随って雑事を勤仕すべしという国司庁宣がだされ(東寺百合文書/平遺1221),本寺の末寺支配は一層強化された。永久3年12月,東寺政所は「讃岐国善通・曼陀羅両寺所司・住人」に国役公事を停止し,東寺の役事を勤仕することを命じており(東寺百合文書/平遺1841),当寺と曼荼羅寺の2か寺の組織が1つにまとめられていることがわかる(善通寺市史)。寺内組織は別当・権別当・修理別当・少別当・三綱(上座・寺主・都維那)などから成っていたと思われる(東寺百合文書/平遺2015・3150,善通寺市史)。この頃から,国衙による寺領の国役・在家役徴収が激しくなり,当寺の寺領支配は次第に困難になる。保延4年国守藤原経高により多度・那珂両郡に散在する当寺・曼荼羅寺領の集中化が図られた(東寺文書/平遺3290)。当寺分の所領は仲村郷に59町5反,弘田郷に13町9反(書陵部所蔵文書/平遺2569)。この寺領の年貢課役の徴収は,国衙によって行われ,その一部が当寺に渡されたと考えられる(善通寺市史)。その後国守は寺領の散在化,集中を繰り返しており,寺領に対する当寺の支配力はさらに弱まり,平安末には「恒例の諸仏事等已に闕怠せるの故,尤も愁うべく悲しむべし」と嘆く状況を招いた(同前,東寺文書/平遺3290)。しかし鎌倉期に入り寺運はしだいに向上。平安期以来の寺領は寛喜元年5月19日の官宣旨により,随心院門跡の相伝所領として承認され(善通寺文書/新編香川叢書),建長4年には国使不入権を得て一円保と呼ばれる寺領として確立した(同前)。また当寺自身が支配する寺領もこの時代に成立した。承元3年8月,讃岐国守が,生野郷重光名の見作田6町を毎年御影堂に寄進,御影のための6人の三昧僧による理趣三昧の勤行,御影堂の修理の費用に充てることとした(同前)。高野正智院の学僧道範が著した「南海流浪記」によれば,当寺の御影を後鳥羽上皇が京都に奉迎,その後上皇の意向により免田が寄進されたという(群書18)。寄進の際国守は東寺から派遣される別当の収掠を戒め,また収入の管理を当寺僧に委ねている(善通寺文書/新編香川叢書,善通寺市史)。その後嘉禄元年4月には,国守から御影堂修理用途料として良田郷内の見作田3町が寄進された(同前)。寺内整備も行われ,建長元年,当寺経営の中心となる誕生院が道範によって建立された(南海流浪記/群書18,善通寺市史)。道範は高野山内での古義派の金剛峰寺と新義派の大伝法院(のちの根来寺)との対立抗争に関与して仁治4年に讃岐に配流の身となった僧(同前,高野春秋編年輯録)。2年後の寛元3年空海の生誕地に一宇を建立することになり,道範は大勧進を務め,建長元年5月の落慶の際には鎮壇法を修している(南海流浪記/群書18,善通寺市史)。なお,当寺には道範以外にも著名な僧が来訪。歌人西行は庵を結んで滞在し「哀れなり同じ野山に立てる木のかゝる標の契りありける」などの歌を残した(山家集/古典大系)。承元元年には浄土宗の祖法然が土佐に流される途次参詣(法然上人行状画図/大日料4-9),寺内に法然の逆修塔がある。また東大寺復興に尽力した重源は当寺の修復にも関与(南無阿弥陀仏作善集/同前)。時宗開祖の一遍も正応2年に参詣した(一遍聖絵)。鎌倉後期,上皇・国司などの崇敬・保護により寺領は著しく拡大した。宝治3年3月,知行国主九条道家による生野郷内公田12町の寄進,建治2年6月,亀山上皇による良田郷郷務寄進,ついで弘安6年4月,国司庁宣により良田郷領家職が寄進され,弘安9年朝廷・幕府から修理料として兵庫島での1艘につき30文の関銭徴収が認められた。これに対し当寺は文永の役の後蒙古撃退の祈祷を「公家武家御願円満」のために修している(善通寺文書/新修香川叢書)。当寺は平安中期以来,東寺末だったが,良田郷寄進後まもない寛喜元年5月当寺および曼荼羅寺が東寺長者の随心院門跡親厳の領掌となり京都随心院の末寺となった(同前)。鎌倉末期元亨4年後宇多法皇崩御の際の遺言で京都嵯峨の大覚寺末となり,大覚寺と随心院との間に相論が起きたが,南北朝期暦応4年随心院が本寺の地位を動かぬものとした(同前)。鎌倉末期頃から寺勢は衰退したが,大勧進宥範の尽力で復興された。宥範は随心院の手にあった誕生院の住持職を入手,また誕生院自身が管領する所領を獲得して誕生院を当寺の宗教上,寺院運営上の中心にすえることにより復興を成し遂げた(同前,善通寺市史)。獲得した所領は,櫛無保地頭職,建武4年真誡寄進の一部地頭職,萱原村領家職である(同前)。うち櫛無保地頭職は,建武3年に足利尊氏から寄進されたもの(同前)。のちに足利尊氏・直義兄弟の発願による利生塔が当寺に置かれる(続左丞抄/大日料6-8)。塔婆料として鵜足(うた)郡井上郷公文職が施入された(善通寺文書/新編香川叢書)。貞治6年細川頼元から地頭御家人ら在地武士の寺領免田の押領を停止するなど9か条の善通寺興行条々が定められ,守護の保護を受けて南北朝の動乱期においても寺勢を維持(同前)。しかし室町中期の応永29年本寺の随心院が弘田郷領家職・一円保所務職・寺家別当奉行などを有力な在地武士と思われる香川美作入道に渡して以来,香川氏らの寺領侵略が始まり寺運は衰退に向かった(同前)。ただし,平安期以来の法灯は維持していた。「大乗院寺社雑事記」文明18年3月21日条に空海に所縁の深い寺での御影供をあげており,東寺・高野山などとともに当寺の名も見える。戦国期阿波国の三好実休が天霧城の香川之景(または元景)を討つために当寺に布陣。永禄元年和議成立後三好氏は引き揚げたが,夕刻出火し伽藍を一夜にして失った(善通寺市史)。しかし,豊臣秀吉の四国攻め後の天正16年正月生駒親正が28石を,同年7月には子の一正が新たに35石を寄進(善通寺文書/新編香川叢書),生駒氏の保護を受けるところとなる。慶長16年高松城で国内の主要真言宗寺院による論義興行が行われ,その際生駒氏の菩提寺の弘憲寺(高松市)と当寺は興行の中心的役割を果たしたと思われる(同前)。寛文6年6月,当寺所蔵の空海の御影を宮中で披露することを命じられた(同前)。この年褒賞として再建の参考とするための「善通寺古伽藍図」が下賜された。現存の図は天明元年の写だが,中世の伽藍を伝える。廃荒していた伽藍は高松・丸亀の歴代藩主の援助を得てしだいに再建された(善通寺市史)。無本寺で甲山寺・曼荼羅寺・出釈迦寺(以上,善通寺市)など50の末寺を擁した時期もあった。寛政3年には19か寺である(本末帳集成)。再興を遂げた伽藍も天保11年の火災で五重大塔などを焼失。五重大塔は明治17年の空海入定1,050年遠忌に復興された(善通寺市史)。寺宝に一字一仏法華経序品(国宝,平安期),金銅錫杖頭(国宝,中国唐代),木造地蔵菩薩立像(国重文,平安期),木造吉祥天立像(国重文,平安期)などを所蔵。また,創建以来の善通寺旧境内は県史跡。著名な年中行事に旧暦1月20日に近い土・日曜日に行われる大会陽(通称はだかまつり)があり,県内外よりの人々でにぎわう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7198904