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田村神社
【たむらじんじゃ】


高松市一宮町にある神社。延喜式内名神大社。讃岐国一宮。旧国幣中社。祭神は倭迹迹日百襲姫命・五十狭芹彦命・猿田彦大神・天隠山命・天五田根命。古くは田村大明神,定水大明神と呼ばれ,現在は一宮さんと通称される。社伝では和銅2年の創祀という。現在は神体として見ることはできないが,奥殿の下に「底なし淵」があり,夏の旱魃時でも水が涸れることなく定まった水量が湧いているという。当社近辺は香東川の川淵で出水が多いことから,水神を祀ったのが創祀と考えられる。「南海通記」にも水神奉斎の説話が見える。嘉祥2年2月28日「田村神」として従五位下に叙され(続日本後紀),貞観7年10月9日には従五位上から正五位下に,同9年10月5日には従四位下に,同17年5月27日には従四位上に,元慶元年3月4日には正四位下から正四位上に昇叙している(三代実録)。これより先貞観3年2月13日には官社に列しており(同前),「延喜式」神名帳香川郡条で「田村神社〈名神大〉」と記される。その後建仁元年には正一位に昇叙したと社伝はいい,社蔵の弘安7年奉納の扁額に「正一位田村大明神」とあるのを根拠の1つとする。平安末期頃からは讃岐国一宮として崇敬を集め,永万元年6月日の「神祇官年貢進納諸社注文」には讃岐国条に「一宮」と見える(平遺3358)。中世には主祭神は猿田彦大神とされていたが(大日本国一宮記・延喜式神名帳頭註/群書2),「北条記」の「三島参籠付霊夢の事」の段には「備中国吉備津宮,讃岐国一の宮も彼神の御子也」とあり,ここでは五十狭芹彦命と考えられていたらしい(続群21上)。別当は隣接する大宝院一宮寺。古くは大宝院のほかに弥勒院と,両院に付属する11の院坊が別当を務めていたが,近世までに大宝院以外はすべて廃絶した(讃岐一宮盛衰記/香川叢書)。一宮寺は行基あるいは義淵の開創と伝え,平安末期頃から別当を務めたという。この一宮寺には宝治元年の刻銘のある石塔群が残り,また貞永・文永・正長・文明等の年号が刻まれた御正体があったといわれる。現存するのは文明9年3月10日のもののみで,表の中央に聖観音立像を置き,その下部に銅板打出の波形を付している。立像を配した点が珍しく,裏には「一宮田村大明神御宝前」の墨銘もある(新修香川県史)。これより先の嘉元4年6月12日付昭慶門院御領目録案には讃岐国条に「一宮」と見える。これは後宇多上皇の管領していた亀山上皇から伝わった大覚寺統の御領を同日昭慶門院(憙子内親王)に譲与した時のもので,「一宮」の知行者として「良寛法印」「秀国」という名が注記されている(竹内文平氏旧蔵文書)。建武の新政が失敗すると,讃岐は室町幕府管領家で讃岐守護でもある細川氏の支配となり,徐々にその領国化していった。当社はその細川氏の崇敬が篤く,頼之は四国仏法興隆の基として,貞治2年3月経蔵を建てて一切経を奉納し,臨時祭を催したという。その後この故事にちなみ,陰暦3月15日に一切経市という農工商者でにぎわう大市が香東川河原に立つようになった。長禄4年には細川勝元が社殿を造営し化粧田として700貫文を寄進したと伝え,同時に26か条からなる制札を定めている。「讃岐国一宮田村大社壁書」がそれで,内容は神官・供僧・神人・神子などの神前・持仏堂での勤行の仕方,神前への灯明・供物の献進,猿楽や白拍子のこと,社頭内外の掃除,朝暮の鐘,社殿社領の保護など多岐にわたる。神事の厳修を命じたもので,勝元の崇敬の深さがうかがえる。同時に,壁書では,神官職・供僧職の一跡相続を規定し,社領売買を禁止し,社領に関する訴訟を社家奉行の管轄として徹底するなどをはじめ,神事を通じて,守護の社家に対する統制の強さをうかがわせる。この壁書によれば,嘉吉3年にも安富安芸入道(守護代か)の沙汰で,いったん壁書の制定が成され,このたび,これに条数を加えて発令されたものらしい。また,第20か条によると,嘉吉年間には守護によって,当社領の「改置」が行われ,社領全体の安堵と画定が成されたらしい。壁書の奥には,守護代の安富筑後入道智安と社家奉行3名が連署し,末尾に細川勝元が花押を据えている(田村神社文書/新編香川叢書)。この壁書は厚さ1.3cm,縦35.1cm,横が135.1cmと69.7cmの2枚の材(第20か条と第21か条の間に継ぎ目がある)に,厳正な書体で条文が陰刻され,表面は黒漆塗,文字には白色胡粉を入れている。節穴3か所と破損箇所に補修が加えられている。またこの時,神社の境界が定められ,一宮大宮司には兵馬1疋と甲冑1領の軍役も定められたという。この頃を記した「南海通記」の一宮大宮司伝には,「一宮ハ上代ノ神式ニテ社僧無之大宮司持也」と見える。一宮氏は讃岐の大族香西氏の支流とされ,一宮に住み一宮大宮司と称し,当社の北西に一宮城を構えていた。「一宮由来記」にも見えるこの居館跡には,現在荒神祠と数基の五輪塔が祀られている。田村氏奉仕以前の一宮氏は当社の宮座を組織し,祭祀を主宰して神殿左の上座に着席の特権を有していた。天正14年8月讃岐を領していた仙石秀久は社領として100石の地を寄進した(田村神社文書/新編香川叢書)。これは当時讃岐統治に困難を極めたことに対する懐柔策として,その意を迎えるために行われたと考えられる(新修香川県史)。天正15年生駒親正(近規)が封ぜられると,50石の社領が寄進され,2代一正も荒地12石を加増している(田村神社文書/新編香川叢書)。その後高松藩主として松平氏が入封すると,初代頼重は隠居後に,一宮寺を分離し唯一神道に改め,同時に社領50石も分割して,当社領44石5斗,一宮寺領5石5斗としたという。元禄14年5月には2代頼常からそれが安堵されている(同前)。この頃には田村氏が神職として祭祀をつかさどっていたらしい。田村氏は平安期に讃岐から出た豪族秦勝倉下の後裔とも,一宮大宮司を先祖とするともいうが定かでない。社殿は文禄5年の地震で倒壊,生駒一正が勧進を命じ,明暦元年に松平頼重の命で再興したと伝えられる(一宮由来記)。明治4年国幣中社に列格。祭礼は5月8日と10月8日。5月の初夏祭には蚊帳垂の神事があり,この日から氏子は蚊帳を用いはじめ,10月の例祭時に蚊帳揚げの神事があって,この日に蚊帳をしまう。このほかにも多くの神事・祭礼があり,「嫁にやるなら一宮へおやり,市や祭りが二度三度」という里謡もある。片添刃鉄鉾身(飛鳥期)・瑞花双鳳禽獣鏡(平安初期)・十二支八卦文鏡(中国唐時代の舶載鏡)・素文鏡・素文八芝鏡残欠(以上,奈良期)が田村神社古神宝類として国重文。現在の社殿は明治初期の再建で,拝殿・幣殿・本殿・奥殿の4殿連結となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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