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多和神社
【たわじんじゃ】


大川郡志度町志度にある神社。旧郷社。祭神は速秋津比売命。大鞆和気命・帯仲津彦命・天照大日売尊・息長帯姫命・大雀尊・倭武尊を相殿に祀る。志度大宮などとも呼ばれた。156段の曲水式石段を登りつめた所にあり,志度町と志度湾が一望できる。社伝では速秋津比売命が多和郷にきて鎮座したものを,後世郷名を冠して多和神社と称したという。速秋津比売命は水門の神といわれ,志度湾の水門の神として創祀されたものかもしれない。「三代実録」元慶元年3月4日条で「多和神」が従五位上に叙せられ,「延喜式」神名帳寒川郡条にも「多和神社」が見える。これを当社に比定する説もあるが(讃岐国官社考証),「全讃史」「讃岐国名勝図会」など近世の地誌はほとんど大田尾明神(現多和神社,長尾町前山)に比定しており,明確ではない。相殿の神は寛平元年大祝讃岐朝臣春雄が勧請,以後多和八幡宮と称したという。「御領分中宮由来」によれば,それは京都石清水八幡宮からの勧請だという(新編香川叢書)。本来志度寺(志度町志度)の傍らにあったが,文明年間に兵火で焼失し,天和9年になって志度寺住職円養が現在地に再建,百姓彦太夫に奉仕させたと伝える。しかし「讃岐国名勝図会」は天正年間の焼失,慶長年間の生駒氏による旧社地での再建,寛文年間の松平氏による移転を記している。いずれにしても当社が移転した現在地には,すでに山王権現が地主神として祀られていたため,山王権現は当社の摂社となったといわれ,当社は山王八幡宮と呼ばれるようになった(全讃史)。山王権現は土製人形を神体としていたという(讃岐国名勝図会)。生駒氏は社領10石を寄進し社殿を造営したと伝え,社領は近世を通じて継続した(全讃史)。松平氏も神輿を寄進し,特に家老大久保家の崇敬が篤かったという。明治4年郷社に列格。例祭は10月12日。なお境内には,宮司松岡家に多和文庫(別称香木舎文庫)がある。これは幕末期~明治期にかけて国学者として活躍した当社宮司松岡調が同家伝来のもののほか,歴史・神道などの文献史料を収集し,保存しているもので,各方面の研究に好個の史料として評価されている。収蔵されている蔵書は典籍を主とし,「伴大納言絵詞」「讃岐国田図」など約1,800点,5,800冊に及ぶ。なかでも天平勝宝6年8月8日と天平宝字2年11月14日の東大寺写経文書が国重文,応永19年の璽箱の包みに関する紙本墨書後小松天皇宸翰御消息・紙本墨書後小松天皇宸翰女房奉書が県文化財。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199071