100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

浪打八幡神社
【なみうちはちまんじんじゃ】


三豊郡詫間町詫間にある神社。旧郷社。祭神は応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。社伝では推古天皇12年に高村親王が創祀したといい,「西讃府志」では貞観元年宇佐八幡宮から山城国男山に勧請の時,風波が強く,当地にとどまったので,八幡神を奉斎したと伝える。また「全讃史」には,旧三野(みの)郡の豪族詫間弾正らが祀り,弓矢の神としたとあり,創祀は明確ではない。弘安元年6月祐賢が当社供僧職に補せられているが,正中2年3月日付浪打八幡宮供僧祐喜申状案によれば,供僧職の任免については「根本相承」「浄行器用」も条件とされていた。しかし貞和4年2月3日の浪打八幡宮領家下文写で供僧職の田畠の諸役が免除されているように,供僧職は年貢・公事免除の田畠が付属する職であったため,競望が多く,12名の定員外でも新加の者が任命されるという状況を呈した(詫間片岡家所蔵文書/新編香川叢書)。毎年8月には放生会が催され,年中行事の番帳も定められていた。貞治6年2月の浪打八幡宮年中行事番帳写の2番に詫間の「宝寿坊」が見えるが,これは別当宝寿院の前身であろう(同前)。年未詳の浪打八幡宮放生会頭人交名には詫間で12名,吉津で19名,仁尾で5名,中村で9名,比地で10名,計5か村55名の頭人が記されており,この地域を信仰圏としていたと考えられる(同前)。文明3年社殿の造営があった(棟札)。天文9年には遷宮が行われ,その時の奉加帳が残る。この奉加帳には詫間・比地・中村・吉津村などの分として,560以上の人名・寺名が記されている(浪打八幡宮遷宮奉加帳/香川叢書)。寛永17年生駒高俊改易時の讃岐国中寺社領高書上写に「高四拾石 宅間之宮」と見える(覚城院文書/新編香川叢書)。詫間郷の総鎮守で,琴弾八幡宮(観音寺市),熊岡八幡神社(三豊郡豊中町)とともに,三大八幡宮と称された。別当は真言宗の神宮寺。神宮寺は福聚山宝寿院と号し,大日如来を本尊としていたが(西讃府志),明治維新で廃絶。明治初期郷社に列格。例祭は10月1・2日。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199303