西植田
【にしうえた】

旧国名:讃岐
西殖田とも書く(全讃史)。春日川上流域および同川支流葛谷川などの流域に位置する。南部は讃岐山脈の支脈に連なる山地,北方に盆地をつくりさらに平地を開く。地名は東植田に対する。植田の地名の由来は,「和名抄」に殖田郷が見え,当地が良質の米を産するため,植田は上田に由来するという説,村民の活動によって田地の増殖したことに対する喜びの意味であるという説がある(木田郡誌)。古くから開けた土地で,弥生式土器の破片が円養寺東の山から,また宮の下から細形銅剣が出土。古墳も多く,3つの円墳(最大はまわり約30m)をもつ葛谷東丘上墳,4つの円墳(最大はまわり約75m)からなり土器・刀剣などを出土し埴輪円筒の破片が散乱している大亀山上墳,横穴式石槨の半ば露出した松尾池北方墳,円筒埴輪や家形埴輪を出土した尾越墳などがある(木田郡誌)。城跡には神内氏の居城と伝える神内城跡(所領1,000石),植田氏の居城植田城跡と,その出城と思われる稗田城跡などがある(木田郡誌)。藤尾神社は分霊奉祭の宮7社があり山田郡の親神と称される。当地方に昔から伝わる正月元旦の八社参りをする習わしは,藤尾神社関係の8社の巡拝で徒歩だった昔は3日がかりだったという。藤尾八幡(藤尾神社)にある鐘は,延宝年間東植田村某が神内談議所の地中から発掘したもので,高松藩主松平頼重の命により本門寿院に預けたところ,撞かないのに「神内に帰ろう,神内に帰ろう」と響くので,藩主に願い出て藤尾八幡に納めたものだという。鐘銘に「讃州植田神内妙福寺常什物を造り奉り鐘楼一宇を建つ。応安二・己酉・卯月五日」とある(古今讃岐名勝図絵)。当地には神内という地名や人名が多い。それは讃岐の国司神櫛王の子孫で,十河・三谷・神内の3兄弟の1人神内氏が勢威を振るっていた名残である。葛谷の通称「大森さん」と呼ばれる神社境内の楠の大樹は幹まわり5mで,天正年間長宗我部元親の家来谷十兵衛が植えたものと伝える(讃州府志・山田町史)。当地の最南部に神村(こうのむね)という地名がある。そこに藤原氏の氏神と称される大原神社があり,その祭祀を行う藤堂家の屋号上の宮が神の宮となり,尊い神様を祀る村,神村となったという(山田町史)。
【西植田村(近世)】 江戸期~明治23年の村名。
【西植田村(近代)】 明治23年~昭和30年の自治体名。
【西植田(近代)】 明治23年~昭和41年の大字名。
【西植田町(近代)】 昭和41年~現在の高松市の町名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199326 |





