西長尾城跡
【にしながおじょうせき】

仲多度郡満濃町長尾と綾歌郡綾歌町にまたがる城山(標高375m)の山頂部にある南北朝から戦国期にかけての長尾氏要城跡。長尾城ともいう。丸亀平野の東南辺にそびえる大高見峰から西方へ延びる稜線部の中ほどに猫山,西端に城山の高まりがある。猫山から城山にかけては,北に面して山すそが広がり,南面は急峻な地形となって土器川沿いの平地に下る。従って,山頂からは東を除く三方への展望に優れ,まさに中讃地方を一望のもとに収めることができる。その山頂に楕円形の本丸跡(約4a)があり,北へ下る尾根筋に12郭,北東へ下る尾根筋に9郭が段下りで連接する。両尾根に抱かれた谷地には溜井戸跡がある。山頂から南東へ下ると,2郭を経て空堀状に仕立てられた鞍部に至る。それより少し登って,俗に「ヤグラ(望台)」と呼ばれる平坦地(標高344m)に出る。ここは南北に長い矩形を呈し,東辺に土塁跡を残す。その東側直下は幅3m・深さ4mほどの空堀跡。さらに東の尾根筋に三郭を配したのち,土橋を設けた堀切りを2か所造っている。こうした城構えは,明らかに北面の守備に重点を置いており,山頂部の地形を最大限に利用した極めて密度の高いものである。城主長尾氏の居館跡は南麓王地の高台地にある超勝寺付近とされ,東の北山から無頭集落にかけて将兵の住居があったという。現在,一帯に中世後半頃の五輪塔墓が数多く残っている。さて,城山には長尾氏の前に,讃岐南朝方の旗頭中院源少将が拠っていた。しかし,貞治元年白峰合戦で細川清氏を倒した細川頼之の大軍に攻めたてられて落城(太平記)。このあとを受けて,応安元年正月三野郡詫間郷筥御崎を領していた海崎伊豆守元高が入城した。元高は,白峰合戦での軍功により栗熊・岡田・長尾・炭所(すみしよ)の4か村を給され,父備前守元村とともに当地に移住,同月大隅守に任ぜられ,長尾大隅守と名乗った。以後,長尾氏は代々大隅守を称する。元高には8男8女があり,長男次郎左衛門虎勝と七男筑後守左衛門尉は父の跡を継ぎ,次男伊勢守と八男惣左衛門は炭所城(満濃町炭所東)を築き,三男左衛門督と五男五郎左衛門は岡田城(綾歌町岡田下)に拠り,四男田村上野守親光と六男上野介は栗熊城(綾歌町栗熊東)を守り,鵜足(うた)・那珂郡の南部に勢力を伸ばした。また,8人の女子は安富筑後守・斎藤下総守・三原左近などの城持ちの武将に嫁いで,「子孫綿々として世々封を継げり」という状況であった(全讃史)。下って,天正7年4月長宗我部元親軍が中讃南部に侵攻してきた。羽床勢(阿野郡羽床郷の羽床城に拠る羽床伊豆守資載)・長尾勢(8代高勝・9代高親)ともに城を打って出て奮戦したが,大軍に押されて籠城となった。その時,天霧城主香川氏を介して降伏勧告があり,同年5月長尾氏はこれに応じた。翌8年春,元親は6,000余を率いて長尾郷に入り,大隅守高親と計って西長尾城の防備を一層固め,また阿波の白地から中通(なかとう)口への6里山路を開き,連絡の便を強化した。先にみた「ヤグラ」周辺部は,元親の修築になるものとされているが,当然山頂部一帯にも入念な手が加えられたことと思われる。これよりのち,城には元親の部将国吉甚左衛門のもとに兵1,000人が留まり,讃岐攻略の拠点となった。元親に服した長尾氏は,天正10年7月以降,奈良氏の聖通寺城攻め,香西氏の佐料・藤尾城攻め,十河氏の十河城攻めなどで元親軍の先鋒をつとめて活躍している。このため,同13年7月元親が豊臣秀吉の四国攻めに屈すると,長尾氏一族は立場を失って野に下り,西長尾城も廃城の途をたどることになった。なお,長尾西佐岡にある佐岡寺の西方松林の中に,長尾大隅守の墓といわれる3基の五輪塔がある。2基は一具のもの,他の1基は輪石が不揃いであるが,いずれも古い様式を示す。それらに並んで,明治42年長尾氏関係者によって建立された大型五輪塔があり,その地輪に「長尾大隅守高勝の墓」と刻まれている。これは,長尾氏系図に天正7年8月病死した高勝の墓を佐岡寺に建てたと記されていることによるという。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199357 |