東浜町
【ひがしはまちょう】

旧国名:讃岐
(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は高松城下の1町。城下の東部に位置し舟入(港)に面した商人町である。町名の由来は高松城の総曲輪の東方で舟入を隔てた浜辺にあるところから東浜といわれたという説と,城郭ができる前までは中央部を大河が流れていて,河の東側の海浜にある集落地であることから東浜とよんでいたという説がある。寛永17年の城下図には東浜町の名は見当たらず,当地に東かこ町が置かれている。生駒氏時代は文禄・慶長の役などで出陣することが多く,とくに兵船を動かす船頭・加子らが大勢いて,1つの町を形成していた。松平氏時代になると参勤交代が加子の主な仕事となり,人数も減少し,常勤の加子(水主・船頭)は曲輪の西にある御船蔵北西部に移住した。一部の者は町人となって他町へ移り(高松藩記に延宝5年に通町に引越した者の加子役を免じ町役を仰せつけたとある),一部の者は漁師などになって浜辺付近に移ったり,魚屋町・北浜(のちの北浜町)などへも移っていった。その跡地へ商人が移ってきて当町と井口町になった。なお,井口町は当初当町の字名井口としてあり,江戸中期頃に当町から分かれた。宝暦2年の城下図には東浜新地とあり,狼煙場が置かれている。同4年に木村半三郎に政所役兼御船手浦政所役を命じているので,東浜町に町人と加子が同居していたことがわかる。寛延3年6月の東浜町宗門御改帳によると,総人口967(男531・女436)で,家数309(持家155・借家154),商家と思われる家が29軒。町役人は組頭12人・町年寄1人(木村半三郎)であった。文化元年に藩が当町地先を埋め立て新地(新湊町)を造成した。江戸期には北部の新湊町と合わせて諸国の品物を商う問屋町が舟入に面して形成された。明治10年の漁業者は379人(122軒),漁船88隻。この頃までに新湊町と地先の八重垣新地も当町に編入している。また,新湊町の恵比須神社を東浜神社と改称した。同15年の市街地図に戸長役場・簡易小学校が記されている。この頃の東浜町の大店に質商・砂糖製造所村川友七,船持商村川利平,質商灘波茂平,御定宿黒岩政吉,船持商・砂糖取扱所金川利三郎,万問屋砂糖取扱所金川治平,万問屋泉又平,万問屋酒類取扱所小西定吉,万問屋灘波和平,諸品取扱所灘波清平などがいた。同23年からは高松市の町名となる。当町に諸紙商1・質商2・穀物商2・酒類商3・醤油商1・万問屋8・木問屋1・炭問屋1・石炭問屋1・米問屋1・仲買商3・炭仲買1・塩仲買1・材木仲買1・穀物仲買7・古道具1・席貸業9・宿屋業3・足袋商1・炭薪商2・材木商2・荒物商1・船具商1・汽船問屋1などがあり(繁昌懐中便覧),問屋・仲買が多いのが目立つ。大正元年の戸数506。世帯数・人口は,昭和15年末368・1,651,同19年末392・1,651,同20年末53・158。同33年2~3丁目,同39年1~3丁目,同47年からは1丁目がある。一部が同33年東浜町2~3丁目,同39年井口町・通町となり,残余に井口町・新材木町・通町の各一部を編入して東浜町1~3丁目となる。同47年大部分が城東町1~2丁目となり,東浜町1丁目のみがわずかに残された。同55年の世帯数78・人口175(男74・女101)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199535 |