100辞書・辞典一括検索

JLogos

42

福栄村
【ふくえむら】


(近代)明治23年~昭和30年の自治体名。はじめ大内(おおち)郡,明治32年からは大川郡に所属。湊川および支流黒川・正守川・東山川・兼弘川などの流域に位置し,竜王山・烏帽子山などの山々に囲まれる。東山・西山・与田山・入野山(にゆうのやま)の4か村が合併して成立。旧村名を継承した4大字を編成。村名は,地域の繁栄を願って命名された。明治25年福栄小学校設立,同37年高等科,同44年農業補習学校を併置。県道引田清水線は,明治38年に蓬莱橋が架橋され,同39年に小海坂隧道が貫通したのち大正4年全線竣工した。ほかに県道福栄白鳥本町線が通っていた。明治24年の戸数647・人口3,463(男1,746・女1,717),官廨1,倉庫34,寺院4,学校2,水車場2(徴発物件一覧)。同36年の戸数652・人口3,390(男1,766・女1,624)。同42年の戸数592・人口3,649(男1,909・女1,740)。大正9年の戸数596・人口2,944(男1,456・女1,488),職業別人口は,農業1,691・鉱業1・工業92・商業58・交通業13・公務自由業47・家事使用人2・無職11,昭和10年の世帯数550・人口2,742(男1,358・女1,384),同20年の人口3,470(男1,628・女1,842),第2次大戦のため男性が少ない。同25年の世帯数647・人口3,519(男1,725・女1,794),職業別人口は,農業1,224・林業狩猟業123・漁業および水産養殖業4・建設業26・製造業118・卸売業および小売業46・金融保険および不動産業5・運輸通信およびその他の公益事業26・サービス業64・公務26・分類不能の産業および不詳5。大正末年頃の当村は,四方を山に囲まれ,平地は少ないが,農業を主とし,養蚕・林業などを副業とした。反別は,田250町・畑70町,米5,600石・麦4,000石・大豆170石・甘藷2万5,000貫を主産物とするほか果実2,800貫・生繭7,000貫余・薪材木木炭を生産し,特に木炭は付近の村に供給するほか阪神地方に移出した。なお松茸の産額は毎年2,000~3,000円に達した(大川郡史)。溜池は宮奥池で,灌漑面積52町余,ほか77。作付面積・石高は,大正7年米241町余・3,338石余,麦198町余・3,404石,昭和2年米249町余・5,624石余,麦182町余・4,790石余,同21年の米207町余・3,832石余,同22年の麦152町余・1,163石余(県統計書)。労働力や肥料などの不足により第2次大戦後は耕作面積・収穫高ともに激減した。同23年には田246町余・畑62町余だったが農地改革の結果このうち田149町余・畑32町余が解放され,改革後の自作面積は,同25年田234町余・畑59町余になった(農地改革3年史)。昭和24年の農家戸数534のうち,自作351・自小作128・小自作18・小作31・貸付地所有農家6。江戸期に盛んであった甘蔗は,明治30年頃までかなり栽培されたがその後衰微。かわって養蚕が行われ,昭和4年の産額1万1,930貫余,県下村別産額番付の西関脇であった(村の新聞)。同年の松茸販売総額5,500余円。その後世界恐慌により繭価が暴落し,同5年の晩秋繭は一時13円台の呼び値まで下がった。その後20円台まで持ち直したが養蚕家の痛手は大きかった。昭和10年の大川郡の繭価は43円余で,好景気に沸いた(東讃新報)。昭和10年の田258町余・畑57町余・宅地7万9,437坪・山林2,847町余・原野3町余,農家耕作反別は5反未満255・5反以上271・1町以上20,平均1戸当たり5反9畝,農産物は米4,850石・麦4,200石・果樹7,000円・蔬菜9,000円・特用作物1,500円・蚕繭2,500円・家禽3,400円・家畜7,200円,林産物は木材4,300円・竹材1,200円・松茸6,000円・木炭4万円,工産物は製粉8,400円・製材3,500円,産業助成機関は産業組合(組合員数432)・村農会(会員数736),福栄尋常高等小学校の生徒数525・教員数15・学級数13,福栄青年学校の生徒数119(男76・女43),青年団員男122・女72,福栄村図書館書籍数1,021冊,徴兵検査受験人員43(東讃新報)。同30年の面積1,452町余,田276町余・畑61町余・宅地7万1,793坪・山林1,114町余(県統計年鑑),同年の世帯数611・人口3,321(男1,641・女1,680),職業別戸数は農業519・商業41・工業4,給与生活者32・その他15,農業生産高米3,870石・麦2,800石・甘藷514貫・葉煙草124貫・繭14貫・松茸44貫(香川年鑑)。昭和5年当村の渡瀬貞が「村の新聞」を発行。発行回数月2回,同7年「東讃新報」と改称。同16年1県1紙の統制を定めた新聞事業令により廃刊のやむなきに至るまで満12年続いた。同30年白鳥町の一部となり,村制時の4大字は同町の大字に継承。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7199610