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福島町
【ふくしまちょう】


旧国名:讃岐

(近世~近代)江戸期~現在の町名。江戸期は丸亀城下の1町。丸亀平野の北部海岸部に位置し,瀬戸内海に面する。丸亀城の北にあたる。「西讃府志」には「南北福島橋浜手ノ二条各三町五間三尺,材木屋条二町二十八間三尺,東西弁天条三町三十七間,裡町条五十九間」とある。もと中須賀といい,塩屋村として地続きの州崎であり,浜町に属していたが,延宝元年16人の船匠が藩の許可を得て移住して町が成立した(西讃府志)。地名の由来は,元禄4年浜町との間に架設された橋が藩主京極高豊により福島橋と命名されたことから起こっている(同前)。城下の町としては新しく成立したが,その後の商工業者の移住により発展,元禄6年には「戸口百倍セリ」(同前)という様になった。同10年の城下図では,東側および南側を西汐入川河口部に囲まれ,この地域に人家が立ち並び,北の海に面す土手東西133間,土手より南端の家まで68間半,家並みは東西115間とある。なお,同地図には,大工(船匠)の家22軒が記されている。福島橋は南北15間5尺,当地と城下中心部を結び,町の発展を促進させた。江戸期を通じてたびたび架け替え・修復が行われたが,修造料は当町民に課せられたため,間役銀・棒役は免除された。町民は橋の維持費などの捻出のためたびたび芝居興行を催している(古法便覧)。また,西汐入川は丸亀城外堀とつながれ,防衛線とされたため,当町には川口と福島橋袂2か所に番所が置かれた。「西讃府志」では,戸数198・人口989(男490・女499),馬3,仏寺は白蓮社・大師堂・庵,神祠は天満宮2・弁財天。白蓮社は玄要寺院内より移された。庵は天保14年寺号を請い西山寺となった。天満宮と弁財天は寛保元年に合祀(現市杵島神社),福島弁天として城下中の信仰を集めた。西平山とともに海の玄関口にあったため,江戸後期の金毘羅参詣の隆盛にともなって繁栄した。町の東側に船泊所があったが,文化3年北手海面に藩によって福島湛甫が築造された。同湛甫は東西61間・南北50間,入口18間,満潮時水深1丈余で,役夫延5万人余・此扶持米435石余・石工賃銀18貫の経費を要した(丸亀市史)。丸亀繁昌記には材木問屋が軒を並べてにぎわう湛甫近辺の様子が記されている。丸亀港をもつ商業地として発展,船を所有した商人も多く,商品輸送の中心地でもあった。明治4年の問屋株所有35軒のうち当町4軒。同11年には丸亀町の1町となり,同18年まで西組に所属。同23年市制町村制施行により丸亀町の1町となり,同32年市制実施にともない丸亀市福島町となる。明治4年の町の広さは1万1,465坪余。同21年の戸数452・人口1,734(うち旧士族142),職業別人口は商業249・工業55・農業10・漁業1・雑業210(丸亀市史)。同25年に北手海面957坪が埋め立てられたのを皮切りに明治期~昭和期に埋立て・港湾整備が進んだ。特に,明治41年~大正2年には西汐入川6,343坪余の埋立ておよび当町西側への付け替え工事が進められ,大正元年埋立地に新町が成立して当町と浜町は地続きとなった。新たに川を挟むこととなった塩屋との間には鶏鳴橋が架設された。また,大正11~14年北手海面埋立てにより蓬莱塩田約82町が築造され,中央開墾株式会社が出張所を置いて経営した。昭和6年にはわが国最初の真空式製塩を採用したが,工場は塩屋町へ移された。港をもち国鉄丸亀駅に隣接する繁華街として商店・旅館・映画館などが立ち並び栄えたが,近年繁華街の中心は他町へ移った。世帯数・人口は,昭和27年424・1,763(男753・女1,010),同55年311・816(男359・女457)。同56年一部が新浜町1~2丁目となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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