松島町
【まつしまちょう】

(近代)①大正10年~現在の高松市の町名。もとは東浜村東浜の一部。御坊川河口の北部沖積地に位置する。江戸期の東浜村のうち今橋から千代橋の街道筋に発達したのが当地である。千代橋のたもとの松島神社境内には第2次大戦前青物市場が立ち,高松市街には「松島の大根売り」が行商に出かけていた。杣場川は今橋から上流を玉川とよび,安政6年に築かれた玉川水門の水は松島南部一帯20町歩を潤す灌漑用水であった。玉川水門近くに高橋があり,南東方向御坊川橋を経由する長尾街道になっていた。高橋の南東隅には,下野国の多賀神社大順坊が当地に滞在中,分霊を勧請した多賀神社があるが,かつては1町ほど南,玉川の西側に祀られていた。高橋から南西に川をさかのぼると,三十郎土堤・樋ノ上・藤塚・中ノ村を経て霊源寺堀にたどりつく。大正10年高松市に編入された時,この高橋を扇の要として西に塩上町,南に花園町,東に松島町が広がっている。大正期には工業化が進んだ。丸高製紙工場は高松ではじめて機械製紙を採り入れ天狗塵紙は昭和初期年産額100万円に達した。畑尾鉄工所は農具を製作し,高松の三大鉄工所の1つに数えられた。当地は農具製作の中心地でもあり,天保年間創業の喜田屋,水車製作の岩崎,唐箕製作の綾田などの製作販売所があった。日本瓦斯高松工場は四国水力電気瓦斯部に併合される。大正9年操業を開始した倉敷紡績高松分工場は1日20玉入70梱の生産力があったが,第2次大戦中は軍需工場となり,飛行機の生産も行ったが,空襲で焼失し,戦後は高松商業高校・高松中央高校の敷地となっている。昭和12年当時の主な会社は,喜多猿八商店(薬種販売)・田村商店(酒類販売)・讃岐製薬・丸八商工(製紙原料販売)・昭和ドライクリーニング・奥田卯吉商店(呉服太物販売)・吉野勇商店(木材販売)・福島金物店・小竹組(土木建築請負業)・合名会社浜田タンス店などがあった。今橋~志度間を運行する東讃電気軌道があったが,昭和初期,四国水力電気が合併した。杣場川は河口の新橋の下を潜って,石炭や材木を積んだ小回り船が出入りし,岸に荷揚げを行っていたが,大正末期に今橋あたりまでの東側堤を埋め立てて川幅を狭くしたため,船の遡行が困難になった。戦後も高橋までは清流が流れていた(昭和28年地図)がその後今橋まで埋められ,現在は新橋まで杣場川緑道として舗装されている。新橋の東は八丁土堤その東は沖松島とよばれたがいずれも福岡町に編入されている。世帯数・人口は,昭和16年1,264・6,262(男3,186・女3,076),同20年7月の高松空襲で当町の51%が焼失し,同年末には836・3,631に減じ,同28年1,428・5,889と復興した。昭和39年高松琴平電鉄志度線以北の地が松福町1~2丁目,一部が松島町1~3丁目・福岡町1~4丁目・多賀町1~3丁目となる。当町は県道牟礼中新線の南側,木太町の西側に住居表示の未実施地区として残っている。世帯数・人口は,昭和40年207・699,同50年205・603,同55年204・576。②昭和39年~現在の高松市の町名。1~3丁目がある。もとは高松市松島町の一部。1丁目は志度線以南,杣場川緑道以東に位置する。国道11号が東西に貫通し,国道に面して北側に高松琴平電鉄志度線今橋停車場,南側に高松市民文化センター・高松第二地方合同庁舎・高松中央高校,その南に県立高松商業高校がある。世帯数・人口は,昭和40年355・1,236,同50年228・707,同55年225・627。2丁目は1丁目に東接し,御坊川の西に位置する。国道の北側に高松琴平電鉄志度線松島二丁目停車場・向良神社(砂糖づくりの先覚者向山周慶と関良助を祀る)があり,国道の南側には松島小学校と光洋中学校がある。世帯数・人口は,昭和40年540・1,848,同50年491・1,446,同55年504・1,368。3丁目は御坊川の東,県道牟礼中新線の以北で,東は木太町に接する。国道11号の北側に四国電力東浜変電所があり,地内南隅に覚善寺がある。世帯数・人口は,昭和40年698・2,383,同50年760・2,234,同55年742・2,052。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7199776 |





