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丸亀藩
【まるがめはん】


旧国名:讃岐

(近世)江戸期の藩名。讃岐国西部を領有した外様中藩。居城は那珂郡の丸亀城(亀山城)。生駒親正は,天正15年に豊臣秀吉から讃岐国15万石を与えられ,翌16年から3年かかって香東郡(香川郡東)の野(箆)原荘に高松城を築き,ここを居城としたが,西讃岐支配のために慶長2年に那珂郡の津ノ森荘の亀山に丸亀城を築いた。この丸亀城には世子生駒一正がおり,一正が藩主になって高松城へ移ってからは城代を置いていたが,元和元年の一国一城令により廃城となった。寛永17年生駒騒動によって生駒氏が出羽国の矢島へ転封され,翌18年肥後国天草の富岡藩4万石の領主山崎家治が西讃岐5万67石余の領主として入部した。山崎家治は廃城となっていた丸亀城を同19年から2年がかりで再興して居城とした。丸亀城は城の石垣が緩い扇形の勾配をもち,全国の城の中でも美しい石垣といわれている。城下町はこの山崎氏時代にほぼできあがった。同20年に豊田郡大野原の開拓を平田与一左衛門に許可し,領内の新田開発に積極的な取組みを行った。大野原開墾のためには井関池の築造が必要であったが,翌正保元年に工事が完成し,翌2年には堤のかさ上げを行った。慶安2年には開発地189町余のうち126町余に検地が実施され,高は653石余となった(大野原町誌)。山崎氏は明暦3年に第3代藩主治頼が幼くして没し,世継ぎがなかったので17年間で断絶となり領地は没収された。翌万治元年に播磨国竜野6万石を領していた京極高和が山崎氏の跡に入り,西讃岐5万67石余に播磨国揖保郡のうち20か村1万石(網干領)と近江国蒲生郡のうち2か村・1,445石余を加えて計6万1,512石余を領した。なお本辞典では丸亀藩(山崎氏)領,丸亀藩(京極氏)領と区別して表記している。讃岐国内の石高は,豊田郡39か村・1万1,793石余,三野(みの)郡27か村・1万9,043石余,多度郡21か村・1万4,676石余,那珂郡のうち19か村・4,409石余,鵜足(うた)郡のうち1か村・143石余(寛文朱印留)。なお寛文12年に京極氏累世の墓所のある近江国坂田郡清滝村・大野木村と播磨国揖保郡の横浜村・大江島村とが替え地となった。のち元禄7年に多度郡のうち15か村・7,130石余,三野郡のうち5か村・2,869石余の計1万石を分封して支藩多度津藩が成立した。このため当藩領の多度郡の朱印高は7か村・7,546石余,三野郡は23か村・6,174石余となった。丸亀藩(京極氏)は高和以後,高豊・高或・高矩・高中・高朗・朗徹と明治維新まで7代・213年間続いた。丸亀藩(山崎氏)成立当初の実高は朱印高より1万8,000石余多い6万8,778石余,寛文3年の実高8万9,670石余(寛文4年高辻帳),多度津藩を分封したあとの延享年間頃の讃岐国内のみの実高は6万1,941石余(藤村文書),宝暦11年の実高は讃岐国6万2,153石余・播磨国1万1,703石余・近江国2,050石余の計7万5,907石余(松浦文書),寛政元年は讃岐国のみで6万2,082石余(藤村文書),天保5年は同じく6万6,589石余(天保郷帳),明治元年は同じく6万1,763石余(旧高旧領)。寛文3年の当藩領全体の取米4万3,821石余・夏成麦1,627石余,延享3年の讃岐国分の総畝数7,400町余,物成2万5,167石余,夏成麦1,625石余(うち大麦1,016石余・小麦609石余),小物成は渋柿84石余・真綿9貫444目余・炭295石余・塩227石余・塩運上銀1貫601匁余・塩浜請銀420匁余・新浜請銀30枚・枌393把余・茶代19匁・漆代6匁余・田畑請米6石・山手米3石余・山手麦1石・御菜代米銀19石余と45匁(藤村文書)。また塩竈屋は45軒で,塩屋浜と詫間浜にあった。塩屋浜は元和年間頃に赤穂から製塩業者が移住して製塩を始めたといわれ(西讃府志),詫間浜では寛文・延宝年間頃に塩生(はぶ)浜・蟻ノ首浜が築造された(詫間町誌)。また天保7年には仁尾浜が築かれた。寛文3年の家臣を除く人数は城下町9,096・讃岐国郷中人数8万3,074・播磨国網干領分1万2,664・近江国領分1,132の計10万5,966(御領地郡村高辻帳)。在郷の延享3年の家数1万8,581,人数は男4万9,337・女4万3,697の計9万3,034(藤村文書)。同じく宝暦11年の家数1万9,343,人数は男5万765・女4万4,187の計9万4,952(松浦文書),同じく寛政元年の家数2万119,人数は男4万9,848・女4万3,492の計9万3,340(藤村文書)。延享3年の寺院131(うち真言宗69・一向宗35など),神社779,社人30,庵215,山伏66,牛5,329,馬512,池758,舟504,網31,舸子屋195,藩有林200(同前)。京極高和は入部して間もなく丸亀城の改築に取りかかり,櫓・石垣などを整備し,第2代藩主高豊の寛文10年には大手門を南から北へ移して藩主居館などを建てて最終的に丸亀城を完成させた(新修丸亀市史)。京極氏時代も大野原の開拓は続けられ,延宝2年に再び総面積191町余(うち田70町余・畑120町余)に検地が行われて858石余を打ち出し,慶安2年よりも65町余・205石余増加している(大野原町誌)。藩では大庄屋支配が行われる行政単位として組が置かれ,享保年間頃は豊田郡は黒淵組・坂本組,三野郡は佐股組・上高瀬組・下高瀬組,多度郡と那珂郡は1郡1組であったが,のち上高瀬組から庄内組が分かれた。組名は大庄屋の出身村を冠しているが,組に含まれる村は一定していなかった(三豊郡史)。幕末は那珂郡は櫛無組,多度郡は善通寺組(のち弘田組),三野郡は上高瀬組・比地組・庄内組,豊田郡は中洲組・和田組となっていた。享保年間に比べると三野郡の組が1つ減っている。宝永2年から藩札を発行したが,2年後の同4年に幕府は諸藩の藩札発行を禁じた。この2年間の藩札発行による利益は237貫余であった。翌5年からは各種商品への新運上銀の賦課を始め,享保2年までの10年間に銀785貫余を徴収した(丸亀市史稿)。藩札発行は同15年から再開された。寛延2年には下作人の地主への年貢米・小作米の納入を督促する下作人取締りが行われた。同18年三野郡の下高瀬村の百姓325人が高松城下へ逃散している。寛延3年正月豊田郡・三野郡の農民4万人余が本山川(財田川)の川原に集合し,大庄屋・庄屋宅を襲った。この一揆は三野郡笠岡村の大西権兵衛ら7人が事前に計画したといわれる。一揆勢は善通寺へ向かい,途中で多度津藩農民を含む那珂・多度両郡の農民も合流して,総勢6万人余になったという。善通寺誕生院で藩の大目付と交渉の結果,年貢未進や借銀米の利留30か年賦返済,過重負担の廃止,村役人の罷免など13か条の要求のうち10か条が認められたため,一揆勢は解散した。のち藩は一揆の首謀者の処罰に乗り出し,大西権兵衛ら7人は磔に処せられ,そのほか永牢・追放など計47人が処分を受けた。現在豊中町笠岡に一揆の中心者7人を祀った権兵衛神社(七義士神社ともいう)がある(西讃百姓一揆始末)。藩士の修学のために寛政9年に藩校正明館を城内に創設し,家臣渡辺半八(柳斎)を教授とした。のち文政8年には城下の風袋町に敬止堂を建て,藩士に限らず領民の修学の場とした。2年後には江戸藩邸に集義館を設けた(丸亀市史稿)。丸亀城下は瀬戸内海に面しており,丸亀湊は人の往来や物資の移出入の地であるとともに,金毘羅参詣者の上陸地でもあった。近世後期になって金毘羅参詣が盛んになってくるにつれて湊の整備が問題となり,文化3年に福島町に福島湛甫を築いた。しかしこれも手狭となり,天保4年に西川口番所(西平山)の波戸の東方に湛甫を築いた。これを新堀湛甫という(同前)。現在新堀湛甫の入口に常夜灯(太助灯籠)が1基あるが,これは新堀湛甫完成を記念してたてられた3基のうちの1つである。19世紀に入ると藩財政は一段と深刻化し,文化2年にこれまでと同じように財政緊縮策,家臣知行米渡しの削減,郷中への才覚銀の賦課などを行った。しかし財政難は好転せず,文政2年には正貨を確保するために奢侈品の買入れによる他領への正貨流出を防ごうとしており,また翌3年には元禄年間頃から生産が盛んとなってきた綿に対する流通統制を強めた。綿旅商人は城下と豊田郡の観音寺・和田浜および三野郡の仁尾の綿問屋から買い入れることにし,領外への積出しもこの4か所に限ることにした。同9年には砂糖製造の実状調査を行い,文政3年に三野郡の詫間村の土佐屋常蔵を砂糖取締吟味役に任ずるとともに,砂糖車運上の取立てを始めている。同8年からは以後5年間の徹底した倹約策が命じられた。翌9年に3年間をかけて耕作地の確定や田畑の位付(等級)の調査を実施することを大庄屋・庄屋へ命じた。これを田面改めといったが,土地の実状を正確に把握して年貢収納を増大させることを狙ったものであった。しかし3年後には調査報告がまったくないという状況であり,16年後の弘化2年にもまだ報告をしていない村があったほどである(長谷川文書)。幕末期に入ると,ペリー来航や安政大地震に伴う出費が重なり,家臣への知行米渡しの削減(丸亀・網干は2割5分,江戸・京・大坂・近江は1割2分5厘)や御用銀米の賦課などを行ったが,安政2年から本格的に藩政改革を始めた。まず以後5か年間の倹約政治の実施による緊縮財政の実現をめざし,藩札対策としては余分の藩札を所持しているものはそれを銀札場へ預けるか封印して各自で保管することを命じた。これを封札令といい,封札を行ったものにはその額に応じて2分5厘の利子を渡すことにした(随筆讃岐の文人)。封札ははじめ強制ではなかったが,同3年秋まで3,901貫余が郷中へ割り付けられた(長谷川文書)。また同3年に1年限りとして御産物御越法金納が行われ,金1万5,000両を年内に確保するために,主として綿と砂糖の生産者に綿植付面積と砂糖車を基準にして正貨を納めさせ,それに相当する額を藩札で渡すというものであった(安藤文書)。同4年には大坂積み・他国積みの砂糖の流通統制を実施し,領内の丸亀城下・観音寺・和田浜・仁尾村・汐木の5か所に砂糖会所を置いた。大坂をはじめ他国積みの砂糖もこの砂糖会所で改めを受けること,大坂積みの砂糖は藩指定の大坂砂糖問屋へ荷揚げしその代金の中から白砂糖・白下地は樽1挺に付き金3歩,蜜・焚込は1挺に付き金1歩2朱を大坂砂糖会所へ納めること,積み出した砂糖会所で金納に相当する藩札を受け取ること,他国積砂糖は大坂積砂糖と同額のものを砂糖会所へ納めて積み出すこと,砂糖生産貸付資金である為替金を必要とするものは組船船頭(9名)を通して砂糖会所から借りることなどとした(佐伯文書)。のちに万延元年には3歩金納が2両となる。綿についてはすでに嘉永5年に城下商人の意見により,領内の綛糸生産を盛んにし,それを大坂へ送って売りさばくため,城下に綛糸寄会所,領内各地に綛糸小寄所を置き,小寄所から寄会所へ綛糸を集めることにしていた。しかしのち新たに生産奨励・流通統制を行っている。大坂の綛屋庄兵衛を国産綿綛糸売捌方として大坂での売りさばきを強化し,また領内での綛糸生産を盛んにし,それを藩札で買い上げようとしている(佐伯文書・長谷川文書)。明治維新に際し隣藩高松藩が朝敵とされ,征討軍として土佐藩兵が高松へ向かったが,当藩は多度津藩とともにその先鋒を勤めた。明治初年の正税3万2,145石余,雑税は金6,666両余・米43石余・塩259石余,戸数3万2,333・人口13万5,101(藩制一覧)。明治4年廃藩置県により丸亀県となる。なお近江国領分は大津県,播磨国領分の揖東郡は生野県,同じく揖西郡は兵庫県となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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