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満濃池
【まんのういけ】


万濃池とも書く。仲多度郡満濃町にある溜池。堤高32m,堤長155m,満水面積138.5ha,貯水量1,540万m(^3),灌漑面積3,239haを有する全国屈指の溜池である。「和名抄」に那珂郡真野郷が見えるが,満濃池の名はその所在地真野(まの)郷に由来するといわれている。また,万を分解して十千の池ともいわれた。「今昔物語」(20巻11話・31巻22話)には「万能ノ池」「満農ノ池」として見えるが,「和歌色葉」「八雲御抄」に「とほぢのいけ」として伝える歌枕も同じ池を指すという。「金毘羅参詣名所図会」「讃岐国名勝図会」には「十市池」とあり,「地名辞書」は「十千池」とし,万は千の10倍であるところからこの雅名を生じたかと推測している。当池は金倉川が丘陵の崖端を側方浸食して形成する幅の広い谷を利用して造られている。谷の出口,狭隘部を池の内側に向けてアーチ型に張り出す短い堤防で効率的にせき止めて造られた台地池である。溜池としては全国一の規模をもつといわれ,満濃太郎の呼び名がある。その歴史は古く,築造は奈良期にさかのぼる。寛仁4年の日付のある「万農池後碑文」(香川叢書)によると,当池は大宝年間に国守道守朝臣がはじめて築いた。築造後たびたび決壊したが,弘仁9年の流破は大きく,官使を下して3年かかって修築したという。この時の修築が有名な弘法大師(空海)の当池築造であろう。「弘法大師行化記」(続群8下)所収の弘仁12年5月27日付太政官符によると,これより先,築池使として路真人浜継が派遣され修築に当たっていたが,池大きく民少なく,築成が期し難い状態であった。そこで在地の郡司らが,多度郡の出身で農民らが慕うこと父母の如き空海が池修築のため来讃するならば,郡内の人々は喜んで集まり協力するであろうとなし,空海を池修理の別当に任じられんことを請う国解が出された。そして,この申請を認める太政官符が発給され,空海は沙弥1人,童子4人を従えて讃岐に下向したところであった。空海は池の堤の側に護摩壇を設けて工事の完成を祈り,農民は群集して工事に当たったと伝える。朝廷も7月に銭2万を施して工事を援助した(日本紀略)。空海はわずか3か月で修築を完成し,9月はじめに京都に帰っている。当池は平安期においても,「更ニ池トハ不思エデ,海ナドトゾ見ケル」(今昔物語)といわれた大池で,那珂・多度郡の田地を潤していたが,決壊はその後も続き,「万農池後碑文」によると,仁寿元年,翌2年の決壊の際には,時の国司弘宗王によって延べ1万9,800人の工夫が動員され修築を行ったという。「今昔物語」の讃岐国司が当池の魚をとろうとして堤に穴をあけ,池を決壊させてしまった話も,このようなたびたびの決壊を背景にして語られたのであろう。鎌倉期には,嘉元4年4月12日の昭慶門院御領目録案(竹内文平氏旧蔵文書)の讃岐国のうちに「万乃池〈泰久勝〉」とある。当池は,元暦元年大洪水によって崩壊し,その後池の内が開発されて田地となり,池内村という村落も成立していたので(満濃町史),この所領も,池そのものというより,開発された土地を領有したものと思われる。昭慶門院領は後醍醐天皇に伝領され,建武新政が倒れた後足利方によって没収されたが,当池はその後賀茂別雷神社に寄進されたらしい。永正17年4月16日,栗野孫三郎景昌というものが,賀茂御社領讃岐国万濃池代官職に任命され,公用12貫700文の納入を請け負っている(賀茂別雷神社文書/大日料9‐12)。近世に入り,寛永5年西島八兵衛は,先の元暦元年の決壊より約450年間放置されていた,当池の再築に着手,2年半を費やして完成させた。規模は堤長45間・深さ11間・南北900間・東西450間,水掛かり高は那珂郡21か村・高1万9,869石,鵜足(うた)郡8か村・高3,160石,多度郡17か村・高1万2,783石余にのぼり,合計3万5,814石余は当時の讃岐国の実高の約6分の1にあたっていた(満濃池水懸り高覚書)。那珂郡五条・榎内・苗田村(現琴平町)を幕府領とし,村高計2,279石余を当池の樋管(ゆる)替えの費用にあて,3か村は池御領と呼ばれた。また,当池周辺の7か村のうち50石は池守給などにあてられた。しかし,宝永3年以降は,ゆる替えは国普請となり,費用は讃岐国中に割り付けられた。寛永20年から幕末まで20数回のゆる替え工事が行われたが,国普請による農民の負担は重く「行こうか,まんしょか(行くまいか),満濃普請,百姓泣かせの池普請」とうたわれたという。安政元年に再び決壊し,幕末の再築は進まなかったが,明治2年修築工事に着手,翌3年に完成した。その後,昭和14年の全国的な大旱魃を契機として実施された昭和16~34年の第3次かさ上げ工事,満濃池導水路の完成によって丸亀平野の農業用水不足は解消された。導水路は土器川の余剰水を仲多度郡琴南(ことなみ)町天川にある取水口から当池に承水する。一部はトンネルによって金倉川上流の江畑川に導水し,当池に貯水する導水路の工事は県営満濃池用水改良事業の一環として1億5,000万円の工費をかけて完成,当池の貯水量は780万m(^3)から1,540万m(^3)に倍増した。受益地域および面積は,丸亀市1,496ha,善通寺市1,267.5ha,多度津町717.1ha,琴平町345.7ha,満濃町774.3ha,仲南(ちゆうなん)町0.1haである。毎年,6月中旬のゆる抜きには堤防上に多くの見物人が押しかけ,この日を境にして丸亀平野では一斉に田植えが始まる。池の周辺は自然の生態系がよく保たれており,6月頃闇に飛びかうゲンジボタル(マンノウボタル)の群れはみごとである。このほか,グンバイトンボ・オヤニラミの生息する渓流,ハルノタムラソウの群生などがあり,満濃池森林公園の整備が進められている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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